会員様から

富士山を背景にしたステンレス「Wa」の力強さ
 静岡県富士宮在住の彫刻家御宿至(みしくいたる)氏にお会いした。
 彼の話だと、24歳の時片道チケットを手に日本を脱出し、向かった先は彫刻家エミリオ・グレコが教授をしている国立ローマ美術アカデミー。そこを無事卒業。そのままイタリアに住み続けた。「観光ガイド等のアルバイトをしながらの制作で、ローマでの個展を転機に『日本・イタリア新世代展』(ローマ国立近代美術館、ローマ日本文化会館)に招待されたのは日本を出てから20年後のことだった。」と芸術で生きる大変さ、でもそれを乗り越えた強さを感じさせる人柄であった。
 お会いした時は広島の文化施設の彫刻コンペの指名を受けて丁度試作中だった。帰りがけに自宅近くの「富士山環境交流プラザ・富士宮」を案内していただけた。木々の匂い、ちょっと冷たい澄んだ空気。木々が秋色に染まり夕日が富士山に映えてやさしい茜色に光っていた。近づくと彫刻作品「Wa」の後方にすっくと富士の姿が見えた・・・癒されるなー・・・と思った。広々とした敷地に一面に広がる芝生も綺麗で、作品ステンレスの表面に芝生の緑や富士の茜を映しこんでいた。ステンレスの作品の中は空洞で出来ている。たとえば棒状の風船でくるんと輪をつくるように丸くしてくっつけた形。この形をつくるのに硬いステンレスでどんな風につくるのか。ちょっとパズル?みたいだなと思った。円筒のパーツを組み合わせるらしいけど、繋ぎ目は大変なんだろうと思えた。磨きの技術もいるらしい。
 作品のまわりを歩きながら、自然の光の中で力強く存在する作品が羨ましかった。


  


2018年01月25日 Posted by 県美友の会 at 15:33トピックス

会員様から

「熊谷守一 生きるよろこび展」で心が泣いた
           
 東京国立近代美術館で開催中の「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」を観た。明快な輪郭線と色面で構成する独特のスタイルの画風は様々なところで印象深く記憶していたが、どんな人か知らないで出かけてみた。そして今回200点もの作品を一挙に観ることが出来、97歳まで生きた彼の人生のことも知り、三人の子供を失ったことも知った。画家だから描けるのだ、と作品を観ながら考えた。自分の子供の死んでいく顔、死んでいる顔、そして野辺の送りの後の帰り道の自分達家族の姿・・。私は自分の弟を亡くしたときのあの悲しみを思い出した。次男 陽は4歳 布団の上での死を描いている「陽の死んだ日」・三女 茜の死・長女 萬の「ヤキベノカエリ」など、愛していたよというメッセージを超えて、描くその執念は画家だから出来たのだろうと思った。描くことで自分を救っていたのだと・・。今私自身は・・生きているということは弟への供養で生きていると思うときがある。守一もきっと供養で生きていたに違いない。

守一の作品達は・・次女が館長の「熊谷守一美術館」(2007豊島区に寄贈して、現在は区立美術館)。また長男 黄(こう)が2004に岐阜県に寄贈し、2015「熊谷守一つけち記念館」に。名古屋の美術収集家 木村定三が「愛知県美術館」に寄贈。ということで、大切に守られていたことも知った。
この展覧会が企画できたのは、いろいろな人に守一は愛されているんだから実現したと感じる。抽象画にも見えるが、具象スタイルなので身近に感じられるところもあるのだと思う。
自分を生かす自然な絵をかけばいい
という言葉の奥に、描くことで生きられた守一を見つけた展覧会だった。
映画が5月に封切られる。「モリのいる場所」熊谷と妻の絆のものらしい。チャンスがあれば見に行きたいと思う。
  


2018年01月19日 Posted by 県美友の会 at 10:00トピックス

第2回研修旅行参加者募集中!

日帰り旅行申込受付中!「春の伊豆へ千年の旅」
昨年11月にリニューアルした下田”上原美術館”と”願成就院”へ日帰り研修旅行です。
詳細は下記をご覧ください。



  


2018年01月18日 Posted by 県美友の会 at 13:34トピックス旅行

会員様から

心で絵を描く                     
お葬式に出席した。五十代になって初めて師事した絵の先生の告別式だった。大学を卒業してからは人並みに子育てに追われ、子供が自立する前は仕送りのために毎日働いて、気がついたらほとんどお母さんで年をとってしまっていただけだった。お母さんの肩書きだけでなく、自分らしく残りの人生でやりたかったことをやろうと思って、思いきって絵の世界に飛び込んだ。
描きたいものは抽象的に脳のなかにあったが、それを表現するという手立てが不思議なことに何となくわからなかった。臆病だったのだ。
絵の先生は、まるで高校の授業のような講義をした。「素直になろう」と心の中で思って自分の描きたいようにのみ描いてみた。もちろん表現にまでたどりついてはいなかった。でも上手いとか下手とかのレベルでなく、自分は何を描きたいのか、また描くとすればどんなふうに描いてみたいのかをただ自分に問いかけていた。「素直でいる」という心の解放のみを考えていた。講義では私は16歳の女学生の立ち位置にいて、先生のそんな講義がだんだん自分の深層を表現するような解放へと導いてくれる気がした。世の中に出るという二十歳の年齢から作りつづけた私の表層部分のしがらみの薄皮を剥ぐようにではなく、一気に剥いでみたい誘惑だった。でもそれも大変なことだった。
先生が入院することになる少し前、デッサンで髑髏の石膏像を描かされた。その髑髏は気味が悪く、私は「気持ち悪いから描きたくない。描かない」と言葉にした。其の日のことはしっかり覚えている。描かないで時間が過ぎ、いつものように先生は「次の講座までに・・宿題」と言った。私は絶対描かないぞと心に決めていた。
そんなとき、まったく偶然に 「ラウシエンバーグのブースター 1967 」という絵を雑誌の中でみつけた。そこには全身の骨格のみがまるでレントゲンのように描いてあり、またブルーのイスや赤い細い線のグラフのようなものがその骨格に上書きのように描かれている。絵の下のタイトルに続いて、「石版、シルクスクリーン タイトルは増速用エンジンおよび、既に投与した薬の効能を促進する薬剤を指す」と書かれていた。まったく現代絵画だ。私は髑髏が作品としてこんな美しい主張をすることができることに驚いた。
しばらくして、私の髑髏の絵は骨格がばらばらで作品になった。意識以前にこんな形に表現した-といってもいい。作品は私自身だった。タイトルはもちろん「剥ぐ」にした。
病院に入院してしまった先生のお見舞いを兼ねて、作品を持っていった。遠くから車椅子の先生が現れ、私の絵を見て、遠くから両手をあげて、それから頭の上で大きな○を描いた。「いいよ」と言ってくれている姿に・・私はしがらみから解放されている自分の意識を理解した。すがすがしいうれしさだった。
 「・・絵の精進をお見守り下さい」と絵の仲間が、亡くなった先生を送る言葉が会場に響いている。私は先生に絵を描くことを通して心を解放させてもらったことを感謝した。すーっと涙が流れた。お別れだった。 

  


2018年01月16日 Posted by 県美友の会 at 10:33トピックス

会員様から

ノリタケの森 
名古屋駅のすぐ近くの一等地会社「ノリタケ」を社長さんの名前だと思っていた私だった。今回訪ねてみて地名だと知った。古びた赤レンガではたくさんの絵付けの工員たちが働いていただろうと想像できた。あの有名なお宝の番組で”オールドノリタケ”に付いた金額に驚き、本物が展示してある聖地に行こうと思っていたことが実現した。
 丁度クレーンがクリスマスツリーの支度をしていた。巨大なツリーを立て、それに飾るプレゼントのカラフルな箱が積み重なって敷地内の道の脇に置いてあった。オールドノリタケの展示室では、壷を飾る釉薬がまるで宝石みたいに、黄金色の線も細かくて絵付けの工員の技術にうーんと唸ってしまった。私はオールドノリタケを持つ生活をしたことはない。でも様々な美しい釉薬を見つけ出して器をつくった工員とそのバックアップに何年も費やしたノリタケという会社はすごいことだったと思った。

  


2018年01月09日 Posted by 県美友の会 at 11:09トピックス