会員様から
世界を巡るー古今東西の品々を集めて 宮内庁三の丸尚蔵館

皇居東御園を歩いた。21平方メートルの広さがあるらしいが、さしあたって江戸城の天守閣跡の天守台に行ってみた。石垣はびっくりするほど美しいが残念ながら・・台座のみである。
天守閣といえば、今年は犬年なのでお正月は犬山城に登った。国宝で昔のつくりのままなので、城の天守閣には細い梯子をがんばらないと到達しない。リハビリを頑張っているおかげもあって、何とかたどり着けた。城めぐりでは昔の人は小柄なのに、一段一段のステップが幅広に造られていることに感心する。武将たちは若かったから登れるのだ。私だって頑張って登るぞ!!いつもは頑張るなんてことを言わないけれど、この時ばかりは、「よいしょ、よいしょ」の掛け声を自分に掛けた。室町時代に建てられ、天守は現存する日本最古の様式だという。信長・秀吉・家康が奪い合った城である。天守閣からの木曽川も眼下に流れていて戦国時代にちょっと想いを馳せた。お正月でとても混んでいた。
皇居の本丸・二の丸・三の丸の一部は芝生が敷き詰められ、もちろん冬だから枯れ草色だったが綺麗にしてあった。どこかの学校の子供たちが芝生の上にシートを引いて、お弁当を食べる準備をしていた。芝生といえば、地元では「入るな」という看板を見慣れた私には、その空間が上品に見えた。皇居の芝生の上でお弁当を食べるのは楽しいことに違いない。風も無く春はまだだけど暖かい日だった。
三の丸尚蔵館は建物の外に無料と書かれた看板があり、入ってくださいとアピールしていた。中はそんなに広くないが外国人も多く鑑賞していた。今回の展示は諸外国の元首や高官からの皇室へのプレゼントの展示であった。イギリスからのステレオグラフォススコープは実際に覗ける様になっていた。覗くと立体に見えるらしいが、右目を瞑っても左目を瞑っても立体にはならなかった。どうしてかは分からなかった。国もアジアをはじめアメリカ・ヨーロッパと広範囲なので、沢山の国の人たちが皇居に挨拶に来ての贈り物なのだが国の特徴が分かりやすい作品達だった。
外に出ると丁度馬車が通りすぎるところだった。馬のおしりがぷりぷりしていて、蹄の音が生々しかった。私たちが歩いている道を馬車が通っているのだ。私は皇居でもイベントで見せるのかと思ったが、実際の大使が乗っていて、警護の騎馬隊だとわかった。タイミングが良すぎて感動してしまった。

皇居東御園を歩いた。21平方メートルの広さがあるらしいが、さしあたって江戸城の天守閣跡の天守台に行ってみた。石垣はびっくりするほど美しいが残念ながら・・台座のみである。
天守閣といえば、今年は犬年なのでお正月は犬山城に登った。国宝で昔のつくりのままなので、城の天守閣には細い梯子をがんばらないと到達しない。リハビリを頑張っているおかげもあって、何とかたどり着けた。城めぐりでは昔の人は小柄なのに、一段一段のステップが幅広に造られていることに感心する。武将たちは若かったから登れるのだ。私だって頑張って登るぞ!!いつもは頑張るなんてことを言わないけれど、この時ばかりは、「よいしょ、よいしょ」の掛け声を自分に掛けた。室町時代に建てられ、天守は現存する日本最古の様式だという。信長・秀吉・家康が奪い合った城である。天守閣からの木曽川も眼下に流れていて戦国時代にちょっと想いを馳せた。お正月でとても混んでいた。
皇居の本丸・二の丸・三の丸の一部は芝生が敷き詰められ、もちろん冬だから枯れ草色だったが綺麗にしてあった。どこかの学校の子供たちが芝生の上にシートを引いて、お弁当を食べる準備をしていた。芝生といえば、地元では「入るな」という看板を見慣れた私には、その空間が上品に見えた。皇居の芝生の上でお弁当を食べるのは楽しいことに違いない。風も無く春はまだだけど暖かい日だった。
三の丸尚蔵館は建物の外に無料と書かれた看板があり、入ってくださいとアピールしていた。中はそんなに広くないが外国人も多く鑑賞していた。今回の展示は諸外国の元首や高官からの皇室へのプレゼントの展示であった。イギリスからのステレオグラフォススコープは実際に覗ける様になっていた。覗くと立体に見えるらしいが、右目を瞑っても左目を瞑っても立体にはならなかった。どうしてかは分からなかった。国もアジアをはじめアメリカ・ヨーロッパと広範囲なので、沢山の国の人たちが皇居に挨拶に来ての贈り物なのだが国の特徴が分かりやすい作品達だった。
外に出ると丁度馬車が通りすぎるところだった。馬のおしりがぷりぷりしていて、蹄の音が生々しかった。私たちが歩いている道を馬車が通っているのだ。私は皇居でもイベントで見せるのかと思ったが、実際の大使が乗っていて、警護の騎馬隊だとわかった。タイミングが良すぎて感動してしまった。
会員様から
「アートのなぞなぞ」高橋コレクション展
図録が届いた。オープニングの日に間に合わなくて、郵送で1ヶ月遅れでやっと届いた。こんなに待ち望んだ図録は初めてだった。展示作品は100点・県美の作品は30点の図録だ。
今回のオープニング用に届いた紹介状は2017年12月一般公開の前日だった。
テープカット後作品を観つつ移動していると、若者が作品について学生風の子供たちにレクチャー的に話している場面に出会った。若者は移動しつつレクチャーが続いていた。何かなと思いつつ聞き耳を立てた。どうもこの作品展の作家さんらしい。そこで「どの作品の方ですか?」とたずねると「梅津庸一です。作品はあっち」と前方の作品を指差した。急いで観にいくと、県美所蔵のラファエル・コランの≪想い≫と難波田龍起「ミクロの世界」の抽象画の間に梅津さんの作品「フロレアル」「Sprig leg」「デロリモーニング」があった。
「フロレアル」は美しい裸体の作品だった。ところが、しばらくして梅津さんがたどり着いて「これ・・・僕がモデルです。日本の美術は黒田清輝によってコランから近代洋画を形成しているけど・・今の日本の美術教育に僕は批判的です」と話した。モデルが彼自身ということは自画像? 一寸観ただけでは、女だと思うほど綺麗だった。梅津さんの作品は高橋コレクションだけど、両側の作品は静岡県美の館蔵品。今回の展示はただ高橋コレクションだけではなく、館作品との組み合わせで、一見似たモチーフだけど、その関係性を考えてほしい組み合わせの展示方法にしている。「この両脇の作品の選択は誰がしたの?」「僕自身ですよ。」「図録から選んだの?」「県美の倉庫の中の実際の作品から自分で選びました」そんな返事をフランクに話している梅津さんを好ましく感じた。
オープニングの2日後、県美講堂で『高橋龍太郎×西尾康之の対談』もあり、出かけてみた。高橋氏の興味・感性・才能は私の知識の範疇を超えすぎて脱帽だった。「病的な世界を病的に表現している作家の作品をコレクションして僕自身の病的なものとのバランスをとっている」・・・ぶっちゃけたら自分の病的な部分を 作品を買う ことでバランスをとっている・・ということでもあるらしいと理解した。参加して何故か私の心が重くなった対談だった。
今回届いた図録の高橋氏は、「国宝だ。古代だ。中世だ。江戸だ。近代だ。洋画だ。日本画だ。現代アートだ。そんな小さな領域に区分することは、あと付けに過ぎない。今生きている私たちが、混ぜてしまえば、皆同じものである。アートとは時代を超えた人間の過剰さの美しき結品なのだ。がらがらぽん 何でもありでやっていかねば。」と書いていた。肩の力を抜いて、観て楽しまなくちゃ。と私も思った。
有難い図録だった。
図録が届いた。オープニングの日に間に合わなくて、郵送で1ヶ月遅れでやっと届いた。こんなに待ち望んだ図録は初めてだった。展示作品は100点・県美の作品は30点の図録だ。
今回のオープニング用に届いた紹介状は2017年12月一般公開の前日だった。
テープカット後作品を観つつ移動していると、若者が作品について学生風の子供たちにレクチャー的に話している場面に出会った。若者は移動しつつレクチャーが続いていた。何かなと思いつつ聞き耳を立てた。どうもこの作品展の作家さんらしい。そこで「どの作品の方ですか?」とたずねると「梅津庸一です。作品はあっち」と前方の作品を指差した。急いで観にいくと、県美所蔵のラファエル・コランの≪想い≫と難波田龍起「ミクロの世界」の抽象画の間に梅津さんの作品「フロレアル」「Sprig leg」「デロリモーニング」があった。
「フロレアル」は美しい裸体の作品だった。ところが、しばらくして梅津さんがたどり着いて「これ・・・僕がモデルです。日本の美術は黒田清輝によってコランから近代洋画を形成しているけど・・今の日本の美術教育に僕は批判的です」と話した。モデルが彼自身ということは自画像? 一寸観ただけでは、女だと思うほど綺麗だった。梅津さんの作品は高橋コレクションだけど、両側の作品は静岡県美の館蔵品。今回の展示はただ高橋コレクションだけではなく、館作品との組み合わせで、一見似たモチーフだけど、その関係性を考えてほしい組み合わせの展示方法にしている。「この両脇の作品の選択は誰がしたの?」「僕自身ですよ。」「図録から選んだの?」「県美の倉庫の中の実際の作品から自分で選びました」そんな返事をフランクに話している梅津さんを好ましく感じた。
オープニングの2日後、県美講堂で『高橋龍太郎×西尾康之の対談』もあり、出かけてみた。高橋氏の興味・感性・才能は私の知識の範疇を超えすぎて脱帽だった。「病的な世界を病的に表現している作家の作品をコレクションして僕自身の病的なものとのバランスをとっている」・・・ぶっちゃけたら自分の病的な部分を 作品を買う ことでバランスをとっている・・ということでもあるらしいと理解した。参加して何故か私の心が重くなった対談だった。
今回届いた図録の高橋氏は、「国宝だ。古代だ。中世だ。江戸だ。近代だ。洋画だ。日本画だ。現代アートだ。そんな小さな領域に区分することは、あと付けに過ぎない。今生きている私たちが、混ぜてしまえば、皆同じものである。アートとは時代を超えた人間の過剰さの美しき結品なのだ。がらがらぽん 何でもありでやっていかねば。」と書いていた。肩の力を抜いて、観て楽しまなくちゃ。と私も思った。
有難い図録だった。
会員様から
・・心のサプリメント
「スイミングの個人レッスン受けてるの。前日からワクワクして寝れないくらい。心のサプリメントだと思う」プールの中にいる私に向かって徳さんが話しかけてきた。心のサプリメント! 何ていい言葉だと思った。
徳さんとは4年前始めて会った。プールで25mも泳げないでバタバタしている私を見て近寄ってきた人だった。そして、私に向かって「どうせ選手になるわけじゃないでしょ!でも泳げたら嬉しいでしょ!あなたは脂肪があって浮くから大丈夫!」と矢継ぎ早に話しかけてきた人だった。びっくりしている暇もなく私は「うん」と頷いていた。いつも「教えるのが趣味なの」といってプールで偶然会ったりすると面倒を見てくれた。「クロールはゆっくり、子守唄を歌うリズムでやると呼吸が苦しくないよ」と言った。私は、「ねんねん~」と心で歌いながら右手を前に、「ころりよ~」を歌いながら左手を前に、「おころりよ~」で右手、「よー~」で左手を前に伸ばして泳いだ。心で歌いながら、右・左・右・左のリズムで泳ぐと25m泳いでも苦しくなくなってきた。多分シルバー向けの教え方で私にあっていた。少しずつ距離が伸びていた。周りの皆も「300mくらい泳ぐと辛いなーという気がしてくるけど、それを過ぎたら後はもうどれだけでも泳げるよ」などと言って励ましてくれた。でも1年くらいは300mくらいのまま過ぎていった。もっと泳げるようになりたいという強い意志は無かった。太っているから、ただ泳いでいて水の中にいることが楽しかった。
ある日のことだった。泳ぎながら何だか体が軽いなーという気がした。泳ぐリズムにまかせていると300mを超えた。何となくもっと泳いでみよう。そう思って・・ついに1000mを泳いでしまった。45分かかっていた。急いで徳さんを探した。徳さんのところに行って、「ご報告あります。1000m泳げました。ありがとう」と伝えると、拍手してくれた。自分でもびっくりの出来事で嬉しい瞬間だった。
あれから3年の月日が経った。徳さんがお金を出して個人レッスンを受けているという。「個人レッスンだと先生が私のために、目の前で泳いでくれる。まるで氷の上を滑るみたいに泳ぐの。だからもうファンになっちゃった。」何回かのレッスン後に私にそう言った。徳さんは水泳のコーチの免許を持ってる人だ。でもレッスンでの的確なボソッと言うアドバイスが嬉しいのだという。長く泳いでいると癖が出ていて直しているという。「値段の高い薬のサプリメントはたくさん飲んでいる。でも心のサプリメントも必要でしょ」
今まで、私は『心のサプリメント』を意識したことも無かった。でも私だって無意識だけど心のサプリメントを見つけているはずだと思った。私のサプリメントとは・・・。
「スイミングの個人レッスン受けてるの。前日からワクワクして寝れないくらい。心のサプリメントだと思う」プールの中にいる私に向かって徳さんが話しかけてきた。心のサプリメント! 何ていい言葉だと思った。
徳さんとは4年前始めて会った。プールで25mも泳げないでバタバタしている私を見て近寄ってきた人だった。そして、私に向かって「どうせ選手になるわけじゃないでしょ!でも泳げたら嬉しいでしょ!あなたは脂肪があって浮くから大丈夫!」と矢継ぎ早に話しかけてきた人だった。びっくりしている暇もなく私は「うん」と頷いていた。いつも「教えるのが趣味なの」といってプールで偶然会ったりすると面倒を見てくれた。「クロールはゆっくり、子守唄を歌うリズムでやると呼吸が苦しくないよ」と言った。私は、「ねんねん~」と心で歌いながら右手を前に、「ころりよ~」を歌いながら左手を前に、「おころりよ~」で右手、「よー~」で左手を前に伸ばして泳いだ。心で歌いながら、右・左・右・左のリズムで泳ぐと25m泳いでも苦しくなくなってきた。多分シルバー向けの教え方で私にあっていた。少しずつ距離が伸びていた。周りの皆も「300mくらい泳ぐと辛いなーという気がしてくるけど、それを過ぎたら後はもうどれだけでも泳げるよ」などと言って励ましてくれた。でも1年くらいは300mくらいのまま過ぎていった。もっと泳げるようになりたいという強い意志は無かった。太っているから、ただ泳いでいて水の中にいることが楽しかった。
ある日のことだった。泳ぎながら何だか体が軽いなーという気がした。泳ぐリズムにまかせていると300mを超えた。何となくもっと泳いでみよう。そう思って・・ついに1000mを泳いでしまった。45分かかっていた。急いで徳さんを探した。徳さんのところに行って、「ご報告あります。1000m泳げました。ありがとう」と伝えると、拍手してくれた。自分でもびっくりの出来事で嬉しい瞬間だった。
あれから3年の月日が経った。徳さんがお金を出して個人レッスンを受けているという。「個人レッスンだと先生が私のために、目の前で泳いでくれる。まるで氷の上を滑るみたいに泳ぐの。だからもうファンになっちゃった。」何回かのレッスン後に私にそう言った。徳さんは水泳のコーチの免許を持ってる人だ。でもレッスンでの的確なボソッと言うアドバイスが嬉しいのだという。長く泳いでいると癖が出ていて直しているという。「値段の高い薬のサプリメントはたくさん飲んでいる。でも心のサプリメントも必要でしょ」
今まで、私は『心のサプリメント』を意識したことも無かった。でも私だって無意識だけど心のサプリメントを見つけているはずだと思った。私のサプリメントとは・・・。
会員様から
小袖山

「仮説の文化―モニュメンタルなものとエフェメラルなものとをめぐる対話」という静岡県文化プログラムスペシャルトークに参加してみた。静岡県立美術館館長の木下直之館長×京谷啓得徳の話を聞くためである。
仮説の作品の中でもモニュメンタルなもの、また対極にエフェメラルなものがある。私はエフェメラルという言葉を生まれてはじめて耳にした。かげろうのような意味だと知った。
「はかない作品について考えたい」と、木下氏は話し始めた。仮説の文化というのは、その場限りの作品で、たとえば、富山県高岡市の福岡町つくりもんまつりの野菜映像からはじまり、国宝姫路城近くの播磨国惣社の三ツ山大祭でのつくりものの写真映像があった。その中で私を捉えたのは二色山・五色山・小袖山の直径10m高さ18mの三つの張りぼてのモニュメントである。木下氏は「作品」と言った。つくりものでも作品であるという視点の立ち居地で見ていた。私は特に小袖山の作品に釘付けになった。作品は20年に一度のまつりで、ほぼ円錐形の張りぼての山の回りに本物の着物を貼り付けたようなまた縫いつけたような作品であった。そしてはりぼて山のてっぺんには神がいた。
日本人の信仰の基本は山だ。神は山に棲み、春は里山に降り、秋の収穫が終わると山に帰る。私の住む岡部でも山から矢を放つまつりがあり、高草山の中に神が住む岩屋がある。
三ッ山大祭のはりぼてを山と呼んでいるが=神である。
写真映像を通して、小袖山のまつりのことを知ったのも初めてだった。私の住む静岡県ではこんなまつりは無いと思う。見たことも参加した事もない。とにかく意識したことはなかった。去年お正月に、きれいになった姫路城に登ったが、その土地の小袖山のことを知ることもなかったことが悔やまれた。
小袖は私の脳の中では豪華なイメージがある。美術館でも小袖展と銘打った展覧会等見たこともある。小袖と聞くと振袖の対極と思えるが、袖口が短いだけで基本的には着物の意味である。
私は裂織作家なので、材料にする着物集めは20年以上になり半端ではない。素材的には女物・男物の大島から大正時代の銘仙・そして綿花から手つむぎの糸で織った木綿の庶民の着物まで集めている。しっかり綺麗なものもあれば、染色が美しければ着古してぼろぼろになったものまである。だからその着物を縫いつけたりした小袖山の作品は・・ちょっと現代美術的ではないかと思った。勇気があれば制作してみたい気持ち。
まつり発祥は信仰から始まっていても権力者の権力の誇示、維持のためなのだと私には思われた。
京谷氏の「活人画」というジャンルも全然知らなかったので、解説を聞くと少し興味が出たが、凱旋門の話は納得できたが・・考えて見れば、凱旋門の形の中に裸の女の人をまるで絵のように配置して見せる時代の話があった。現在だったらセクハラの雰囲気も内包している作品達があっての活人画なのであった。生きたままの女たちの裸が参加者にじろじろ見られているのを作品といっている立場を楽しいと思う自分はいない。今の時代の思考ではやはりセクハラと思うのである。研究は楽しいだろうが、話を聞く私自身は素直に喜べなかった。
木下氏の福岡の櫛田神社の節分祭りのおたふくの映像も心に残った。絵的にも楽しいと思った。まつりが終われば壊されてしまう作品について、県美の木下氏が熱く語る視点が心に残った。小さい頃何か感動する張りぼてまつりの原体験があったかと、対談終了後に伺ったが、そんなこともなく、学芸員時代に興味が沸いたらしい。
これからの公的な県美の展覧会企画の中にがちがち100%でなく・・作品の見方・考え方に風穴のあくメッセージを上手に発信してもらいたい。そんなことを感じたトークだった。


「仮説の文化―モニュメンタルなものとエフェメラルなものとをめぐる対話」という静岡県文化プログラムスペシャルトークに参加してみた。静岡県立美術館館長の木下直之館長×京谷啓得徳の話を聞くためである。
仮説の作品の中でもモニュメンタルなもの、また対極にエフェメラルなものがある。私はエフェメラルという言葉を生まれてはじめて耳にした。かげろうのような意味だと知った。
「はかない作品について考えたい」と、木下氏は話し始めた。仮説の文化というのは、その場限りの作品で、たとえば、富山県高岡市の福岡町つくりもんまつりの野菜映像からはじまり、国宝姫路城近くの播磨国惣社の三ツ山大祭でのつくりものの写真映像があった。その中で私を捉えたのは二色山・五色山・小袖山の直径10m高さ18mの三つの張りぼてのモニュメントである。木下氏は「作品」と言った。つくりものでも作品であるという視点の立ち居地で見ていた。私は特に小袖山の作品に釘付けになった。作品は20年に一度のまつりで、ほぼ円錐形の張りぼての山の回りに本物の着物を貼り付けたようなまた縫いつけたような作品であった。そしてはりぼて山のてっぺんには神がいた。
日本人の信仰の基本は山だ。神は山に棲み、春は里山に降り、秋の収穫が終わると山に帰る。私の住む岡部でも山から矢を放つまつりがあり、高草山の中に神が住む岩屋がある。
三ッ山大祭のはりぼてを山と呼んでいるが=神である。
写真映像を通して、小袖山のまつりのことを知ったのも初めてだった。私の住む静岡県ではこんなまつりは無いと思う。見たことも参加した事もない。とにかく意識したことはなかった。去年お正月に、きれいになった姫路城に登ったが、その土地の小袖山のことを知ることもなかったことが悔やまれた。
小袖は私の脳の中では豪華なイメージがある。美術館でも小袖展と銘打った展覧会等見たこともある。小袖と聞くと振袖の対極と思えるが、袖口が短いだけで基本的には着物の意味である。
私は裂織作家なので、材料にする着物集めは20年以上になり半端ではない。素材的には女物・男物の大島から大正時代の銘仙・そして綿花から手つむぎの糸で織った木綿の庶民の着物まで集めている。しっかり綺麗なものもあれば、染色が美しければ着古してぼろぼろになったものまである。だからその着物を縫いつけたりした小袖山の作品は・・ちょっと現代美術的ではないかと思った。勇気があれば制作してみたい気持ち。
まつり発祥は信仰から始まっていても権力者の権力の誇示、維持のためなのだと私には思われた。
京谷氏の「活人画」というジャンルも全然知らなかったので、解説を聞くと少し興味が出たが、凱旋門の話は納得できたが・・考えて見れば、凱旋門の形の中に裸の女の人をまるで絵のように配置して見せる時代の話があった。現在だったらセクハラの雰囲気も内包している作品達があっての活人画なのであった。生きたままの女たちの裸が参加者にじろじろ見られているのを作品といっている立場を楽しいと思う自分はいない。今の時代の思考ではやはりセクハラと思うのである。研究は楽しいだろうが、話を聞く私自身は素直に喜べなかった。
木下氏の福岡の櫛田神社の節分祭りのおたふくの映像も心に残った。絵的にも楽しいと思った。まつりが終われば壊されてしまう作品について、県美の木下氏が熱く語る視点が心に残った。小さい頃何か感動する張りぼてまつりの原体験があったかと、対談終了後に伺ったが、そんなこともなく、学芸員時代に興味が沸いたらしい。
これからの公的な県美の展覧会企画の中にがちがち100%でなく・・作品の見方・考え方に風穴のあくメッセージを上手に発信してもらいたい。そんなことを感じたトークだった。

会員様から
宮西達也氏(絵本作家)のギャラリーへ
静岡県清水町出身で三島市在住の宮西氏の「TATSU‘S GALLERY」(タッズ・ギャラリー)で宮西さんにお会いした。私が子育ての頃にはまだ宮西さんの絵本は無かったので、自分の子供に読んであげたことはなかった。私が最初に手に入れたのは『ドロドロドンキーとゆうすいくん』で、宮西さんが育った駿東郡清水町の町制施行50周年を記念して誕生したキャラクターが登場する絵本。私の子育て中にはミシマバイカモを子供たちに見せたくて、車で何度も訪ねたことも今では懐かしい思い出だ。絵本の中に写真も入っていて、あの美しいミシマバイカモが小さいけど写っている絵本。絵本の種類ではちょっと変わっていて町が絡んでいる絵本だった。
到着したギャラリーのドアを開けた途端に目に飛びこんだジオラマや絵本原画展示全部のその中に細身のおじさんが居て、それが宮西さんだった。60歳だと知った。
彼はとてもフランクに・・大学を卒業してから描いた絵本を出版社に持込した話。デビュー時代にはまだコンピューターの無い時代で、CMYK(印刷に使う4原色)でやっていたこと。すべての文字は出来合いのフォントでなく自分のオリジナルで書いていることなど話してくれた。絵本は水彩で描くばかりでなく版画での色づけもあるとのことだった。絵本をちょっと見ただけでは私には分からなかった。
また沢山の作品の中で『おっぱい』を読み聞かせしたときの子供たちの反応から学んだことなど、実際に読み聞かせの体験から学んだことも話してくれた。今では読み聞かせの体験も積極的にしているが、宮西氏に直接読み聞かせしてもらった子供たちの歓声が聞こえるようだった。暮れにはニューヨークで過ごしたこともあり、宮西氏の絵本をベースに映画が作られていて、音楽担当の坂本龍一氏のプライベートスタジオに入れてもらったり、次の日にはレストランでハグしあった体験をまたまた楽しそうに話してくれた。
最後にこれからの夢を語った。ギャラリー内で、絵本作家を育てたり、読み聞かせの部屋にしたい、とメージを展開する話が次々と。
話を伺っている間にも宮西氏ファンが三々五々ギャラリーに出入りして、絵本にサインをお願いしていた。「なんていうの」と聞きだして、サラサラとティラノザウルスの絵と○○ちゃんへとサインしていた。私も自分の孫たちにプレゼントするためにサインをお願いした。私自身用の絵本には、かずこちゃんへ・・と書いていただけて、なんだか照れた自分がいた。かずこちゃんと呼ばれたのは、若き日SBS時代のキャスター仲間同士で呼び合った呼称で、昔のそんな若い自分も思い出したからだった。
静岡県清水町出身で三島市在住の宮西氏の「TATSU‘S GALLERY」(タッズ・ギャラリー)で宮西さんにお会いした。私が子育ての頃にはまだ宮西さんの絵本は無かったので、自分の子供に読んであげたことはなかった。私が最初に手に入れたのは『ドロドロドンキーとゆうすいくん』で、宮西さんが育った駿東郡清水町の町制施行50周年を記念して誕生したキャラクターが登場する絵本。私の子育て中にはミシマバイカモを子供たちに見せたくて、車で何度も訪ねたことも今では懐かしい思い出だ。絵本の中に写真も入っていて、あの美しいミシマバイカモが小さいけど写っている絵本。絵本の種類ではちょっと変わっていて町が絡んでいる絵本だった。
到着したギャラリーのドアを開けた途端に目に飛びこんだジオラマや絵本原画展示全部のその中に細身のおじさんが居て、それが宮西さんだった。60歳だと知った。
彼はとてもフランクに・・大学を卒業してから描いた絵本を出版社に持込した話。デビュー時代にはまだコンピューターの無い時代で、CMYK(印刷に使う4原色)でやっていたこと。すべての文字は出来合いのフォントでなく自分のオリジナルで書いていることなど話してくれた。絵本は水彩で描くばかりでなく版画での色づけもあるとのことだった。絵本をちょっと見ただけでは私には分からなかった。
また沢山の作品の中で『おっぱい』を読み聞かせしたときの子供たちの反応から学んだことなど、実際に読み聞かせの体験から学んだことも話してくれた。今では読み聞かせの体験も積極的にしているが、宮西氏に直接読み聞かせしてもらった子供たちの歓声が聞こえるようだった。暮れにはニューヨークで過ごしたこともあり、宮西氏の絵本をベースに映画が作られていて、音楽担当の坂本龍一氏のプライベートスタジオに入れてもらったり、次の日にはレストランでハグしあった体験をまたまた楽しそうに話してくれた。
最後にこれからの夢を語った。ギャラリー内で、絵本作家を育てたり、読み聞かせの部屋にしたい、とメージを展開する話が次々と。
話を伺っている間にも宮西氏ファンが三々五々ギャラリーに出入りして、絵本にサインをお願いしていた。「なんていうの」と聞きだして、サラサラとティラノザウルスの絵と○○ちゃんへとサインしていた。私も自分の孫たちにプレゼントするためにサインをお願いした。私自身用の絵本には、かずこちゃんへ・・と書いていただけて、なんだか照れた自分がいた。かずこちゃんと呼ばれたのは、若き日SBS時代のキャスター仲間同士で呼び合った呼称で、昔のそんな若い自分も思い出したからだった。
会員様から
関の小万
私の住む岡部町は東海道五十三次の江戸日本橋から数えて21番目の宿場町である。40年も住んで今は岡部観光ボランティアをしているので宿場町の古い町並みに心を癒されることがある。時代の流れで古い町並みも気がつくと新しい家に変わりはじめているが、日本の中にはまだ昔の面影を残している宿場もある。その中で伝統的な町家が200棟以上現存する三重県亀山市にある関宿(せきじゅく)は重要伝統的建造物群保存地区になっていて、行ってみたいと思っていた。
47番目の宿場で参勤交代や伊勢参りの人が行き来したのでとても賑やかだった古い町並みを堪能しつつ歩いた。岡部より町並みが守られていて、羨ましかった。町並みを歩いていると、戸口におばさんが立っていて「関の小万というあだ討ちをした娘のお墓が近くにあるから、寄っていったら」と声をかれられた。「関の小万???もしかして日舞の 関の小万 の歌の人なの」と聞き返したが、おばさんにはその質問の意味は伝わらず答えはなかった。
私の娘が5歳のとき、お稽古で日舞を習っていたが、その踊りは
関の小万は亀山通い 色を含むや冬ごもり・・・
と歌詞があり、日舞では「お月様」の次に習った「関の小万」である。今は合併して関は亀山市になっている。長い間単に踊りの歌詞だとばかり思っていたので、そのリアリティーにびっくりした。近くだったので教えてもらった福蔵寺にお墓を捜しに行った。割合小さなお寺だったけど、右奥に見つけることが出来た。小万は母が久留米藩士。敵討ちの旅の途中関宿の山田屋で生まれた子だという。母親はまもなく亡くなったが、子は山田屋にひきとられ、母の遺言の父の仇を討つため亀山の道場に通った。剣術の修行をし、あだ討ちは成し遂げたのが小万だとわかった。
ただ舞踊は
夏は涼しき網代笠 ・・手拍子が そん 揃うた そろた そろた そろそろそろ・・
と続くので、タイトルはまぎれもなく関の小万だけど、色々な意味合いもあって、当時の話題が盛り込まれた歌詞だろうと理解した。長唄風の音曲は親しみやすく、娘はかわいく踊っていたことも懐かしい。
「関の小万」で何が本当かと振り回されたけど、実在した小万のことは忘れられない存在になった。

私の住む岡部町は東海道五十三次の江戸日本橋から数えて21番目の宿場町である。40年も住んで今は岡部観光ボランティアをしているので宿場町の古い町並みに心を癒されることがある。時代の流れで古い町並みも気がつくと新しい家に変わりはじめているが、日本の中にはまだ昔の面影を残している宿場もある。その中で伝統的な町家が200棟以上現存する三重県亀山市にある関宿(せきじゅく)は重要伝統的建造物群保存地区になっていて、行ってみたいと思っていた。
47番目の宿場で参勤交代や伊勢参りの人が行き来したのでとても賑やかだった古い町並みを堪能しつつ歩いた。岡部より町並みが守られていて、羨ましかった。町並みを歩いていると、戸口におばさんが立っていて「関の小万というあだ討ちをした娘のお墓が近くにあるから、寄っていったら」と声をかれられた。「関の小万???もしかして日舞の 関の小万 の歌の人なの」と聞き返したが、おばさんにはその質問の意味は伝わらず答えはなかった。
私の娘が5歳のとき、お稽古で日舞を習っていたが、その踊りは
関の小万は亀山通い 色を含むや冬ごもり・・・
と歌詞があり、日舞では「お月様」の次に習った「関の小万」である。今は合併して関は亀山市になっている。長い間単に踊りの歌詞だとばかり思っていたので、そのリアリティーにびっくりした。近くだったので教えてもらった福蔵寺にお墓を捜しに行った。割合小さなお寺だったけど、右奥に見つけることが出来た。小万は母が久留米藩士。敵討ちの旅の途中関宿の山田屋で生まれた子だという。母親はまもなく亡くなったが、子は山田屋にひきとられ、母の遺言の父の仇を討つため亀山の道場に通った。剣術の修行をし、あだ討ちは成し遂げたのが小万だとわかった。
ただ舞踊は
夏は涼しき網代笠 ・・手拍子が そん 揃うた そろた そろた そろそろそろ・・
と続くので、タイトルはまぎれもなく関の小万だけど、色々な意味合いもあって、当時の話題が盛り込まれた歌詞だろうと理解した。長唄風の音曲は親しみやすく、娘はかわいく踊っていたことも懐かしい。
「関の小万」で何が本当かと振り回されたけど、実在した小万のことは忘れられない存在になった。

ロダン館やってマス!
会員様から
映画 「ジャコメッティ・・最後の肖像」
図録写真で見知っていたジャコメッティが生きていると思うほど、雰囲気がある顔が動いている。ジェフリー・ラッシュが変身しているが、あまりにぴったりで、映画が始まった瞬間とりこになった。ジャコメッティにモデルを頼まれたロードがジャコメッティのアトリエを訪ねる。アトリエは作品を含め、絵の具やデッサンのための小物がジャンクのように散らかっている。窓が汚れシートが垂れ下がったアトリエ。
モデル1日目。厳しい声かけ。こんな風にモデルに声かけしていたのか。カラー映画なのに、瞬間瞬間がまるで白黒の映画の色彩に感じた。ジャコメッティの油絵の具の白・灰色・黒が、溶かし油でキャンバスに描かれるので、すべてがモノクロに見えた。緊迫していて美しい色彩だと思った。モデルの顔を微妙に調整したり、「肖像画とは決して完成しないものだ」と話しながら、物語は進んでいく。当然モデルの当惑や期待の表情に物語の進行が想像できて映画作りが上手いと思った。
モデル4日目。カロリーヌというモデルが突然現れる。その雰囲気はジャコメッティが彼女をどれ程必要としているか解かるが、彼女は娼婦で気ままで・・。
モデル5日目。カロリーヌが行方不明になる。彼女を探すジャコメッティの狂気。町をさ迷う映像。当時のフランスの娼婦の部屋や夜の街頭風景が写り出される。
モデル14日目。完成間近なのに・・肖像画の顔部分を突然太筆で上塗りする。アー
と心の声を私はあげる。「希望が最高潮になると私は投げ出すんだ」。ジャコメッティの言葉だ。モデルがいるのに・・結局自分を表現しているのだ。
ジャコメッティの話す言葉がアーティストの思考を理解するヒントになる。この映画は実際にモデルをしたエッセイストのジェイムズ・ローズが書いて居る。彼はジャコメッティの話す言葉を記録し、そして自分の気持を見つめる。それがこの映画になった。羨ましいなーと思った。
1964年.パリ。モデルのカロリーヌのすけこましにフランの札束を払うジャコメッティの雰囲気にインパクトがあった。「一日のモデル代が10フラン。今までの分。これからの分」フランの札束はざくっと固まり10センチほどの厚さがあった。ジャコメッティのカロリーヌへの心が想像される。1966年に亡くなっているので、この映画は2年前のジャコメッティ64才のことだ。年をとった男の心の動きが想像できた。
今では、ユーロが貨幣単位。私がフランを使って旅をしたのは、この映画の時代のそのちょっと前のことだ。ジャコメッティは亡くなったばかりだったのだ。
図録写真で見知っていたジャコメッティが生きていると思うほど、雰囲気がある顔が動いている。ジェフリー・ラッシュが変身しているが、あまりにぴったりで、映画が始まった瞬間とりこになった。ジャコメッティにモデルを頼まれたロードがジャコメッティのアトリエを訪ねる。アトリエは作品を含め、絵の具やデッサンのための小物がジャンクのように散らかっている。窓が汚れシートが垂れ下がったアトリエ。
モデル1日目。厳しい声かけ。こんな風にモデルに声かけしていたのか。カラー映画なのに、瞬間瞬間がまるで白黒の映画の色彩に感じた。ジャコメッティの油絵の具の白・灰色・黒が、溶かし油でキャンバスに描かれるので、すべてがモノクロに見えた。緊迫していて美しい色彩だと思った。モデルの顔を微妙に調整したり、「肖像画とは決して完成しないものだ」と話しながら、物語は進んでいく。当然モデルの当惑や期待の表情に物語の進行が想像できて映画作りが上手いと思った。
モデル4日目。カロリーヌというモデルが突然現れる。その雰囲気はジャコメッティが彼女をどれ程必要としているか解かるが、彼女は娼婦で気ままで・・。
モデル5日目。カロリーヌが行方不明になる。彼女を探すジャコメッティの狂気。町をさ迷う映像。当時のフランスの娼婦の部屋や夜の街頭風景が写り出される。
モデル14日目。完成間近なのに・・肖像画の顔部分を突然太筆で上塗りする。アー
と心の声を私はあげる。「希望が最高潮になると私は投げ出すんだ」。ジャコメッティの言葉だ。モデルがいるのに・・結局自分を表現しているのだ。
ジャコメッティの話す言葉がアーティストの思考を理解するヒントになる。この映画は実際にモデルをしたエッセイストのジェイムズ・ローズが書いて居る。彼はジャコメッティの話す言葉を記録し、そして自分の気持を見つめる。それがこの映画になった。羨ましいなーと思った。
1964年.パリ。モデルのカロリーヌのすけこましにフランの札束を払うジャコメッティの雰囲気にインパクトがあった。「一日のモデル代が10フラン。今までの分。これからの分」フランの札束はざくっと固まり10センチほどの厚さがあった。ジャコメッティのカロリーヌへの心が想像される。1966年に亡くなっているので、この映画は2年前のジャコメッティ64才のことだ。年をとった男の心の動きが想像できた。
今では、ユーロが貨幣単位。私がフランを使って旅をしたのは、この映画の時代のそのちょっと前のことだ。ジャコメッティは亡くなったばかりだったのだ。