会員様から
静岡県文花プログラムスペシャルトーク
2018―1
海の国 静岡

ちょっと地味なチラシに武蔵野美術大学博士・民俗学神野善治(かみのよしはる)氏 と静岡県立美術館館長木下直之氏の対談案内があった。チラシには浮き輪のように見える丸い形の、一見すると昔の石でできたお金みたいなイラストが描かれていた。何だろう。会場はレストラン&カフェ「グランテラス」。グランシップのレストランが講座室に変身しての講演会場だった。50人程が参加していた。
そんなに期待していなかったということもあったかも知れない。でも静岡の海の傍で暮らす人々が、どんな暮らしを営み、どんな文化を築いていて、その為の道具を「美しい道具」と話す神野さんの人柄・声・表情にすっかり魅了されてしまった。すべてが愛情表現だったのだ。神野さんは道具の1つ1つを見つけたときの感動をストレートに話した。そんな風に道具をチャーミングに話す人に私は初めて出会った。最初は昔の絵馬・絵図。豆州内浦のまぐろ漁の絵。湾内で普通にまぐろを捕っている絵だった。多分絵だけを見せられたとしても私の記憶に残らない絵だった。でも神野氏が話した後では、その絵が宝物に思えたことが不思議だった。会場は神野ワールドで洗脳された。
ところで神野氏は現在大学で700人の生徒に民俗学を教えているらしい。成績をつけるのも大変でと言いながら・・レポートで民族と書く生徒がいると嘆いていた。俗と族さえ意識できないことが許せないらしい。私も戸惑った。日常の会話で民俗学と意識してしゃべったことが無かったからだ。
鈴木兼平さんの「焼津漁労絵図」。近藤和船研究所の話。八丁櫓。こちらは私が岡部に住んでいるので身近な話題で、知っている事だったが聞いていて楽しかった。
蟹を捕る道具を古老につくってもらった写真もインパクトを感じた。それに網や針の道具を含めてたくさんの情報発信だった。そしてあのストーンだと思ったのは布で出来ていた。魚を木のたらい桶に入れ、売るための移動のとき頭に乗せるクッションだった。
最近文化プログラムの愛知県での新聞記事を読んだ。演出家、劇作家の野田秀樹さんが監修する「東京キャラバン」で、500人の人が集まり、多様性に富んだ「ゆるゆる」の夏祭りになったとある。前回・今回参加した静岡県文化プログラムの講座の存在はわかったが、文化発信の立ち位置がまだわからないでいる。
2018―1
海の国 静岡
ちょっと地味なチラシに武蔵野美術大学博士・民俗学神野善治(かみのよしはる)氏 と静岡県立美術館館長木下直之氏の対談案内があった。チラシには浮き輪のように見える丸い形の、一見すると昔の石でできたお金みたいなイラストが描かれていた。何だろう。会場はレストラン&カフェ「グランテラス」。グランシップのレストランが講座室に変身しての講演会場だった。50人程が参加していた。
そんなに期待していなかったということもあったかも知れない。でも静岡の海の傍で暮らす人々が、どんな暮らしを営み、どんな文化を築いていて、その為の道具を「美しい道具」と話す神野さんの人柄・声・表情にすっかり魅了されてしまった。すべてが愛情表現だったのだ。神野さんは道具の1つ1つを見つけたときの感動をストレートに話した。そんな風に道具をチャーミングに話す人に私は初めて出会った。最初は昔の絵馬・絵図。豆州内浦のまぐろ漁の絵。湾内で普通にまぐろを捕っている絵だった。多分絵だけを見せられたとしても私の記憶に残らない絵だった。でも神野氏が話した後では、その絵が宝物に思えたことが不思議だった。会場は神野ワールドで洗脳された。
ところで神野氏は現在大学で700人の生徒に民俗学を教えているらしい。成績をつけるのも大変でと言いながら・・レポートで民族と書く生徒がいると嘆いていた。俗と族さえ意識できないことが許せないらしい。私も戸惑った。日常の会話で民俗学と意識してしゃべったことが無かったからだ。
鈴木兼平さんの「焼津漁労絵図」。近藤和船研究所の話。八丁櫓。こちらは私が岡部に住んでいるので身近な話題で、知っている事だったが聞いていて楽しかった。
蟹を捕る道具を古老につくってもらった写真もインパクトを感じた。それに網や針の道具を含めてたくさんの情報発信だった。そしてあのストーンだと思ったのは布で出来ていた。魚を木のたらい桶に入れ、売るための移動のとき頭に乗せるクッションだった。
最近文化プログラムの愛知県での新聞記事を読んだ。演出家、劇作家の野田秀樹さんが監修する「東京キャラバン」で、500人の人が集まり、多様性に富んだ「ゆるゆる」の夏祭りになったとある。前回・今回参加した静岡県文化プログラムの講座の存在はわかったが、文化発信の立ち位置がまだわからないでいる。
会員向けレクチャー募集中!
「めがねと旅する美術展」レクチャー
<日 時> 平成30年12月2日(日)11:00~ 30分程度(定員30名)
<集合場所> 2F 企画展入口
<持 ち 物> 友の会会員証
<受 講 料> 無料ですが、企画展入場券が必要となります。
<締 切> 11月29日(木)
<申込方法> 事務局までお電話、FAXにてお申込み下さい。
お申込みの際にはレクチャー希望・お名前・会員番号・電話番号をお知らせください。
尚、特別会員様のみ1名同伴可能です。
<お申込み先> 友の会事務局 (火・木・金在館) 電話・FAX 054-264-0897
<日 時> 平成30年12月2日(日)11:00~ 30分程度(定員30名)
<集合場所> 2F 企画展入口
<持 ち 物> 友の会会員証
<受 講 料> 無料ですが、企画展入場券が必要となります。
<締 切> 11月29日(木)
<申込方法> 事務局までお電話、FAXにてお申込み下さい。
お申込みの際にはレクチャー希望・お名前・会員番号・電話番号をお知らせください。
尚、特別会員様のみ1名同伴可能です。
<お申込み先> 友の会事務局 (火・木・金在館) 電話・FAX 054-264-0897
会員様から
「極北へ」 石川直樹
アラスカ飛行場に向かう空から私が見たマッキンリー(デナリ)は今まで見たどんな景色よりも美しかった記憶がある。光が白銀の世界の山々を染めていたので、タイミングも良かったかもしれない。神々しい景色だった。デナリはマッキンリーと同じ山で、2015年に名前が変わったばかり。理由は北米先住民のコユコン族の「高きもの」を意味する「デナリ」をオバマ大統領が正式に認めたからだ。私は個人的にはマッキンリーの響きが好きなのだが、1897年のアメリカ大統領のウイリアム・マッキンリーの名前だったので、時代の流れで当然アラスカ人の好むデナリに変わったというわけだ。
石川直樹の本「極北へ」を読んでいる。2018年3月に発行されたばかり。静岡県立美術館に県内在住の太田正樹氏が石川直樹氏の撮影した富士山の写真を寄贈した。東京の画廊スカイザバスハウスで手に入れたものだ。新館蔵品展(2018 7/4~9/2)で5作品が展示中だった。
石川直樹氏とはどんな人?
冒険家+文筆家+写真家・・何て贅沢な肩書きだ。新館蔵品期間中に石川氏が来館した。自分の冒険の話もしながら、出版された本掲載の写真をスクリーンに写しながら、撮影したときの心境を語る講座に参加した。7大陸最高峰の登頂体験を持っていると聞いていたのに、お会いした本人は筋肉隆々でもなく大柄でもなかった。「きれいな風景写真を撮りたいわけでもなく、富士山と自分との関わりを撮っている」と語った。「経験を写真で撮っている」・・たとえば写真を見て高山病でふらふらしている自分を思い出す・・ということなのだ。撮影に使っているのは中判カメラ「Plaubel makina」(プラウエル マキナ) というカメラ。昔は1本で20枚撮れたが、今では10枚のフィルムになってしまったそうだ。同じカメラは6台持っている。今まで何台だめにしたかわからないとも。畳めば小型になり、1250gと軽量。蛇腹がかっこよかった。
「極北へ」の本の冒頭には「世界中を旅して写真を撮り、文章を書いて生きていくためにはどうしたらいいか」と考えていた受験生時代の気持ちが書かれている。40代の今は冒険家として、多くのファンを集めて人生を語っている。話を聞きながら、私も自分の人生を振り返っていた。
「言葉が通じないところでは20歳の頃は怖くない」と言った言葉が心に広がった。
アラスカ飛行場に向かう空から私が見たマッキンリー(デナリ)は今まで見たどんな景色よりも美しかった記憶がある。光が白銀の世界の山々を染めていたので、タイミングも良かったかもしれない。神々しい景色だった。デナリはマッキンリーと同じ山で、2015年に名前が変わったばかり。理由は北米先住民のコユコン族の「高きもの」を意味する「デナリ」をオバマ大統領が正式に認めたからだ。私は個人的にはマッキンリーの響きが好きなのだが、1897年のアメリカ大統領のウイリアム・マッキンリーの名前だったので、時代の流れで当然アラスカ人の好むデナリに変わったというわけだ。
石川直樹の本「極北へ」を読んでいる。2018年3月に発行されたばかり。静岡県立美術館に県内在住の太田正樹氏が石川直樹氏の撮影した富士山の写真を寄贈した。東京の画廊スカイザバスハウスで手に入れたものだ。新館蔵品展(2018 7/4~9/2)で5作品が展示中だった。
石川直樹氏とはどんな人?
冒険家+文筆家+写真家・・何て贅沢な肩書きだ。新館蔵品期間中に石川氏が来館した。自分の冒険の話もしながら、出版された本掲載の写真をスクリーンに写しながら、撮影したときの心境を語る講座に参加した。7大陸最高峰の登頂体験を持っていると聞いていたのに、お会いした本人は筋肉隆々でもなく大柄でもなかった。「きれいな風景写真を撮りたいわけでもなく、富士山と自分との関わりを撮っている」と語った。「経験を写真で撮っている」・・たとえば写真を見て高山病でふらふらしている自分を思い出す・・ということなのだ。撮影に使っているのは中判カメラ「Plaubel makina」(プラウエル マキナ) というカメラ。昔は1本で20枚撮れたが、今では10枚のフィルムになってしまったそうだ。同じカメラは6台持っている。今まで何台だめにしたかわからないとも。畳めば小型になり、1250gと軽量。蛇腹がかっこよかった。
「極北へ」の本の冒頭には「世界中を旅して写真を撮り、文章を書いて生きていくためにはどうしたらいいか」と考えていた受験生時代の気持ちが書かれている。40代の今は冒険家として、多くのファンを集めて人生を語っている。話を聞きながら、私も自分の人生を振り返っていた。
「言葉が通じないところでは20歳の頃は怖くない」と言った言葉が心に広がった。
会員様から
舟形屋敷 洪水から屋敷を守る

台風や梅雨前線の雨で河が氾濫したり、土砂崩れで家の中に土が入り込んだりの災害が続いている。台風も立て続けにやってきていて、テレビのニュースでは警戒を呼びかけていた。
そんな時大井川流域の屋敷の中には敷地の先端を大井川上流に向けて、洪水の流れを左右に分け被害を免れていた舟形屋敷を訪ねたことを思い出した。青野さんの家だった。地元では舟形屋敷の存在は有名らしいが、私はその時まで見た事がなく知らなかった。
敷地そのものが舟の形になっていた。溢れる水害体験のなかから生み出した貴重な生活の知恵の敷地の形であった。どうして造られたかと言うと、青野さんご先祖達は文政年間(1828)子年の大水で命が危ない被害にあい、その後につくった屋敷だったのだ。
大井川は長さだけだと天竜川に次いで2番目なのに、急勾配の川床を持っている。水源は高度3000㍍で2000㍍の分水嶺からの水を集めていて、一気に海に流れ込む荒れ川。洪水の記録は4年に一度は大井川流域のどこかでおきていた。
舟形屋敷は建物を中心にその周りに舟のような形に高さ1.5から2㍍前後の石垣堤防をつくり、その土に松を何十本と植えていた。屋敷の先端は勿論川上流を向いていて、先端には竹を植えていた。先端にいくと、竹や松などの木が勝手に成長していて、地面は石がごろごろしていた。青野さんは高齢だったが、私の質問にも朴訥に返事をしてくれた。興味を持った人が訪ねても同じように対応している感じだった。時代が変わり、沢山あった舟形屋敷も減っているとの事だった。
核家族が増え自分もローンを組んで家を買った。ローンの関係で土地を自由に選べない状況だった。今のところは大丈夫。でもニュースで大水の被害に会った家が昔からの安全な場所でなく新たに造成された土地だったとしたら、人災でもある気がする。
青野さんが元気でいて時代のリアルを語り続けて欲しいと心から思った。
台風や梅雨前線の雨で河が氾濫したり、土砂崩れで家の中に土が入り込んだりの災害が続いている。台風も立て続けにやってきていて、テレビのニュースでは警戒を呼びかけていた。
そんな時大井川流域の屋敷の中には敷地の先端を大井川上流に向けて、洪水の流れを左右に分け被害を免れていた舟形屋敷を訪ねたことを思い出した。青野さんの家だった。地元では舟形屋敷の存在は有名らしいが、私はその時まで見た事がなく知らなかった。
敷地そのものが舟の形になっていた。溢れる水害体験のなかから生み出した貴重な生活の知恵の敷地の形であった。どうして造られたかと言うと、青野さんご先祖達は文政年間(1828)子年の大水で命が危ない被害にあい、その後につくった屋敷だったのだ。
大井川は長さだけだと天竜川に次いで2番目なのに、急勾配の川床を持っている。水源は高度3000㍍で2000㍍の分水嶺からの水を集めていて、一気に海に流れ込む荒れ川。洪水の記録は4年に一度は大井川流域のどこかでおきていた。
舟形屋敷は建物を中心にその周りに舟のような形に高さ1.5から2㍍前後の石垣堤防をつくり、その土に松を何十本と植えていた。屋敷の先端は勿論川上流を向いていて、先端には竹を植えていた。先端にいくと、竹や松などの木が勝手に成長していて、地面は石がごろごろしていた。青野さんは高齢だったが、私の質問にも朴訥に返事をしてくれた。興味を持った人が訪ねても同じように対応している感じだった。時代が変わり、沢山あった舟形屋敷も減っているとの事だった。
核家族が増え自分もローンを組んで家を買った。ローンの関係で土地を自由に選べない状況だった。今のところは大丈夫。でもニュースで大水の被害に会った家が昔からの安全な場所でなく新たに造成された土地だったとしたら、人災でもある気がする。
青野さんが元気でいて時代のリアルを語り続けて欲しいと心から思った。
会員様から
掛川市二の丸美術館&磐田市香りの博物館
静岡から少し足をのばして掛川市二の丸美術館へ。
我が家の娘がはまった映画に掛川城がでていたから行きたい!
ちょうど私も香りの博物館で開催中の「コーヒーと香り展」をテレビでみて
行きたいなぁ~と思っていたので家族で西まで足をのばすことに。
二の丸美術館で開催中の「掛川城と高知城」ちょうど社会でならった
戦いの絵が展示されていました。知っている名前もでてきて
良い勉強に?なったのでは。きっかけはどうあれ色んなことに
どんどん興味を持ってくれたら嬉しいです。

香りの博物館は毎年県内小学生に配布されるしずおかミュージアムパスポートを見せると
小学生は無料で入館できます。もちろんスタンプも押してもらいました。
色んな香りを楽しんでいる間こどもたちはオリジナル香水をつくっていました。

静岡から少し足をのばして掛川市二の丸美術館へ。
我が家の娘がはまった映画に掛川城がでていたから行きたい!
ちょうど私も香りの博物館で開催中の「コーヒーと香り展」をテレビでみて
行きたいなぁ~と思っていたので家族で西まで足をのばすことに。
二の丸美術館で開催中の「掛川城と高知城」ちょうど社会でならった
戦いの絵が展示されていました。知っている名前もでてきて
良い勉強に?なったのでは。きっかけはどうあれ色んなことに
どんどん興味を持ってくれたら嬉しいです。

香りの博物館は毎年県内小学生に配布されるしずおかミュージアムパスポートを見せると
小学生は無料で入館できます。もちろんスタンプも押してもらいました。
色んな香りを楽しんでいる間こどもたちはオリジナル香水をつくっていました。

会員様から
静岡平和資料館

今年の第65回安倍川花火は台風12号の影響で雨のため順延になり、8月末にはそれも中止になった。昭和28年の開始以来初めてだという。
しずおか平和資料館のボランティアをしている田中さんに「来てください」と誘われていて、今回訪ねて安倍川の花火は戦没者の慰霊のためだったと知った。展示作品やビデオを見て戦禍のすさまじさも知った。駿府城のまわりは壊滅状態でB29にやられた写真があった。安倍川の河川敷まで水を求めて逃げた人たちが沢山いたが、亡くなった人達を川原で荼毘にふした。江戸時代に家康の命令で多くのキリシタンを殺害した河川敷である。
子育て中、花火の日は朝から七輪と鍋におでん種を入れて、安倍川の橋下の日陰でおでんを温めながら水遊びしたりして花火の打ち上げを待ったこともあった。
去年は河川敷に理路整然と並んでいるシートを敷き詰めたところで、のんびり花火見物をした。川原を裸足で歩きまわることが懐かしい。弱ったからだが悲しいが、受け入れざるを得ない。でも花火は好きだ。夏休みは子供達を連れて、鹿島花火・静波花火・焼津海上花火・蓮華寺花火・日本平花火と花火行脚した日々が懐かしい。いろんな花火の中では日本平が印象的だ。打ち上げ方向の一番先端に陣取ると「これより危険」の合図のロープが掛かっていた。アルバイトの男の子が安全確認チェックで座っていた。そして最初の花火がドーンと打ちあがった瞬間、男の子が吃驚して這って逃げた。その慌てぶりが面白かった。私は体にドーンと響く音が好きだ。そして火の粉が落ちてくるのを避けたり、花火の破片の殻を集めたりした。懐かしい思い出だ。
戦没者の慰霊法要は、今年は本部主催で8/25日にとりおこなわれていた。
平和資料館で展示してある物の中で祝着があった。お宮参りの着物だ。柄が戦意高揚絵入りのもので、絹で出来た一つ身袷綿入れ着。飛行機・日の丸・船艦が描かれていた。KUVOHIUKAとロープウェイのボディーに文字が書かれていて、<空母日向>と読むらしい。そんな祝着も私は裂き織の材料で集めていた。また<陽子さんのもんぺとたび>もあり、私が今コレクションしている絣の柄で出来ていた。私はその戦火を想像するしかなかったが、家族を亡くした人の悲しみはとてもわかるので、この資料館の存続を心から願った。
今年の第65回安倍川花火は台風12号の影響で雨のため順延になり、8月末にはそれも中止になった。昭和28年の開始以来初めてだという。
しずおか平和資料館のボランティアをしている田中さんに「来てください」と誘われていて、今回訪ねて安倍川の花火は戦没者の慰霊のためだったと知った。展示作品やビデオを見て戦禍のすさまじさも知った。駿府城のまわりは壊滅状態でB29にやられた写真があった。安倍川の河川敷まで水を求めて逃げた人たちが沢山いたが、亡くなった人達を川原で荼毘にふした。江戸時代に家康の命令で多くのキリシタンを殺害した河川敷である。
子育て中、花火の日は朝から七輪と鍋におでん種を入れて、安倍川の橋下の日陰でおでんを温めながら水遊びしたりして花火の打ち上げを待ったこともあった。
去年は河川敷に理路整然と並んでいるシートを敷き詰めたところで、のんびり花火見物をした。川原を裸足で歩きまわることが懐かしい。弱ったからだが悲しいが、受け入れざるを得ない。でも花火は好きだ。夏休みは子供達を連れて、鹿島花火・静波花火・焼津海上花火・蓮華寺花火・日本平花火と花火行脚した日々が懐かしい。いろんな花火の中では日本平が印象的だ。打ち上げ方向の一番先端に陣取ると「これより危険」の合図のロープが掛かっていた。アルバイトの男の子が安全確認チェックで座っていた。そして最初の花火がドーンと打ちあがった瞬間、男の子が吃驚して這って逃げた。その慌てぶりが面白かった。私は体にドーンと響く音が好きだ。そして火の粉が落ちてくるのを避けたり、花火の破片の殻を集めたりした。懐かしい思い出だ。
戦没者の慰霊法要は、今年は本部主催で8/25日にとりおこなわれていた。
平和資料館で展示してある物の中で祝着があった。お宮参りの着物だ。柄が戦意高揚絵入りのもので、絹で出来た一つ身袷綿入れ着。飛行機・日の丸・船艦が描かれていた。KUVOHIUKAとロープウェイのボディーに文字が書かれていて、<空母日向>と読むらしい。そんな祝着も私は裂き織の材料で集めていた。また<陽子さんのもんぺとたび>もあり、私が今コレクションしている絣の柄で出来ていた。私はその戦火を想像するしかなかったが、家族を亡くした人の悲しみはとてもわかるので、この資料館の存続を心から願った。
会員様から
講演『石川直樹が見た静岡井川・南アルプス』
9月に入ってまた台風情報がテレビから流れてきた。目を覚ましてからずっと雨音が太鼓のようだ。講演会+井川神楽+在来野菜を求めて井川の町へ。参加申し込み段階で、「自分の車で行きたいんですけど」と言うと、用意されたバス乗車が参加条件だった。何としても『石川直樹が見た静岡井川・南アルプス』の講演に参加したかったので了解した。
大型バス3台で静岡駅から出発したが山道でのすれ違いに苦労していた。途中富士見峠では霧がかかっていたのに、井川湖に到着する時は霧も晴れ、雨も上がっていた。
講演会入り口のテントで、地場産品を売っていた。在来なすは太くて見慣れた形の2倍の大きさ。在来きゅうりは短くてちょっとずんぐりしていた。意識して在来物を見たのははじめてだった。在来作物は120種類以上あり、1つの地域で残っているのはとても珍しいとのこと。在来作物を食べることは「風景を食べること」らしい。皆さんは争って買っていた。
先週、静岡県立美術館友の会の会報誌「プロムナード」の表紙に石川氏の富士の写真《Mt.Fuji#38》掲載許可の件で本人と話したばかりだ。その後石川氏は一週間の間に、東海フォレスト山岳ガイドや静岡市の職員と一緒に南アルプスに登っていて、写真を撮っているはずだった。でも講演では石川氏の撮影した写真披露はなかった。残念だった。登山に同行した撮影映像を見ながら「私は山に登ったり、本をつくったりが自分の仕事です。今回山を登る機会を得ました。天気が悪くて白樺荘~千枚で残念ながら引き返しました」と話しはじめた。石川氏の写真が楽しみで参加した知り合いは少し怒っていた。結局南アルプスの全貌は判らなかった。ただ雷鳥の親と3羽の子供達の写真が心に残った。
講演後、石川直樹ファンがサインを求めで並んだ。私も「極北へ」の本を持参していたので、便乗してサインしてもらった。優しい美しい字のサインだった。ツーショット写真も撮ってもらえた。
井川神楽保存会の人達の舞が始まった。緑・白・オレンジの衣装を着て豊作を祈願した演目「三宝舞」や太刀を使った「五拍子舞」を披露していた。昔お茶壷姫に密着したとき、見せていただいた井川神楽だった。その時は外の景色の中での舞いだった。自然の光の中での衣装がきれいに見えていたことを懐かしく思い出した。
9月に入ってまた台風情報がテレビから流れてきた。目を覚ましてからずっと雨音が太鼓のようだ。講演会+井川神楽+在来野菜を求めて井川の町へ。参加申し込み段階で、「自分の車で行きたいんですけど」と言うと、用意されたバス乗車が参加条件だった。何としても『石川直樹が見た静岡井川・南アルプス』の講演に参加したかったので了解した。
大型バス3台で静岡駅から出発したが山道でのすれ違いに苦労していた。途中富士見峠では霧がかかっていたのに、井川湖に到着する時は霧も晴れ、雨も上がっていた。
講演会入り口のテントで、地場産品を売っていた。在来なすは太くて見慣れた形の2倍の大きさ。在来きゅうりは短くてちょっとずんぐりしていた。意識して在来物を見たのははじめてだった。在来作物は120種類以上あり、1つの地域で残っているのはとても珍しいとのこと。在来作物を食べることは「風景を食べること」らしい。皆さんは争って買っていた。
先週、静岡県立美術館友の会の会報誌「プロムナード」の表紙に石川氏の富士の写真《Mt.Fuji#38》掲載許可の件で本人と話したばかりだ。その後石川氏は一週間の間に、東海フォレスト山岳ガイドや静岡市の職員と一緒に南アルプスに登っていて、写真を撮っているはずだった。でも講演では石川氏の撮影した写真披露はなかった。残念だった。登山に同行した撮影映像を見ながら「私は山に登ったり、本をつくったりが自分の仕事です。今回山を登る機会を得ました。天気が悪くて白樺荘~千枚で残念ながら引き返しました」と話しはじめた。石川氏の写真が楽しみで参加した知り合いは少し怒っていた。結局南アルプスの全貌は判らなかった。ただ雷鳥の親と3羽の子供達の写真が心に残った。
講演後、石川直樹ファンがサインを求めで並んだ。私も「極北へ」の本を持参していたので、便乗してサインしてもらった。優しい美しい字のサインだった。ツーショット写真も撮ってもらえた。
井川神楽保存会の人達の舞が始まった。緑・白・オレンジの衣装を着て豊作を祈願した演目「三宝舞」や太刀を使った「五拍子舞」を披露していた。昔お茶壷姫に密着したとき、見せていただいた井川神楽だった。その時は外の景色の中での舞いだった。自然の光の中での衣装がきれいに見えていたことを懐かしく思い出した。
会員様から
日坂宿
山岡鉄舟の書に出会う


<東には東海道の難所「小夜の中山」が控え、西には「事任八幡宮」が鎮座する小さな宿場町でした>と書かれたお茶のペットボトルを、昔からある小夜の中山の茶店で買った。世界農業遺産茶草場農法の里東海道の25番目の宿場町日坂でつくられているお茶だった。お茶のペットボトルの種類はたくさんあるが、茶草場の濃いお茶は初めて飲んだ。
小雨の中目的地の本陣跡に向かって走った。今まで日坂宿を通ることが無かったことが不思議。でも国1がまだ旧道を走っていた頃も日坂はほんのちょっぴり道から外れていたから通っていないのだ。宿場としては坂下(三重県鈴鹿)、由比に次ぐ小さな宿場。
萬屋・藤文・かえで屋・問屋場跡・川坂屋などの中で印象深かったのは、川坂屋。宿場の中で1番西にあった旅籠屋で、身分の高い武士や公家などが宿泊した格の高い脇本陣格の建物だった。そしてそこで山岡鉄舟(1836~1888)の書を見つけた。襖に貼ってあり、バランスも良く味のある書だった。心が釘付けになった。明治初頭に一旦廃業後も要人に宿を提供したことから書が残っていたのかと思った。7言律詩だったが読み取ることは出来なかった。幕末の3舟(勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟)の1人で明治維新後、徳川家達に従い駿府で活躍した人の書だ。牧の原のお茶の助言もしていた。「鉄舟のいない世の中は生きるに値しない」と胃癌で亡くなった時言われたそうだ。素敵な人だったんだと想像できる。
私は山岡鉄舟の書が好きだ。2年ほど前に浜松の方広寺の正面中央軒下の扁額《山奥深(じんおうざん)》を見たとき感動したが、調べたら鉄舟の字だった。膠液で溶いた胡粉で書かれた文字。山林火災で方広寺の伽藍の多くが焼失したとき沢山の書を書いて費用を捻出して応援し、しかも再建した本堂の開堂時に掲げた文字だ。力強い美しさだった。人から頼まれれば断らずに書いて鉄舟の書は一説では100万枚あるとの事だった。
日坂観光ボランティアの鈴木克美さんが建物の中で「日坂馬子唄」を歌ってくれた。お父さんが良く歌っていたので、耳で覚えてしまったとの事だった。
小夜の中山 疲れもしたがナ
登りゃうれしや 飴の餅
馬がもの言うた 峠の茶屋でナ
おさんどんなら ただ乗せる
江戸時代の風情を感じる歌だった。
山岡鉄舟の書に出会う
<東には東海道の難所「小夜の中山」が控え、西には「事任八幡宮」が鎮座する小さな宿場町でした>と書かれたお茶のペットボトルを、昔からある小夜の中山の茶店で買った。世界農業遺産茶草場農法の里東海道の25番目の宿場町日坂でつくられているお茶だった。お茶のペットボトルの種類はたくさんあるが、茶草場の濃いお茶は初めて飲んだ。
小雨の中目的地の本陣跡に向かって走った。今まで日坂宿を通ることが無かったことが不思議。でも国1がまだ旧道を走っていた頃も日坂はほんのちょっぴり道から外れていたから通っていないのだ。宿場としては坂下(三重県鈴鹿)、由比に次ぐ小さな宿場。
萬屋・藤文・かえで屋・問屋場跡・川坂屋などの中で印象深かったのは、川坂屋。宿場の中で1番西にあった旅籠屋で、身分の高い武士や公家などが宿泊した格の高い脇本陣格の建物だった。そしてそこで山岡鉄舟(1836~1888)の書を見つけた。襖に貼ってあり、バランスも良く味のある書だった。心が釘付けになった。明治初頭に一旦廃業後も要人に宿を提供したことから書が残っていたのかと思った。7言律詩だったが読み取ることは出来なかった。幕末の3舟(勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟)の1人で明治維新後、徳川家達に従い駿府で活躍した人の書だ。牧の原のお茶の助言もしていた。「鉄舟のいない世の中は生きるに値しない」と胃癌で亡くなった時言われたそうだ。素敵な人だったんだと想像できる。
私は山岡鉄舟の書が好きだ。2年ほど前に浜松の方広寺の正面中央軒下の扁額《山奥深(じんおうざん)》を見たとき感動したが、調べたら鉄舟の字だった。膠液で溶いた胡粉で書かれた文字。山林火災で方広寺の伽藍の多くが焼失したとき沢山の書を書いて費用を捻出して応援し、しかも再建した本堂の開堂時に掲げた文字だ。力強い美しさだった。人から頼まれれば断らずに書いて鉄舟の書は一説では100万枚あるとの事だった。
日坂観光ボランティアの鈴木克美さんが建物の中で「日坂馬子唄」を歌ってくれた。お父さんが良く歌っていたので、耳で覚えてしまったとの事だった。
小夜の中山 疲れもしたがナ
登りゃうれしや 飴の餅
馬がもの言うた 峠の茶屋でナ
おさんどんなら ただ乗せる
江戸時代の風情を感じる歌だった。