会員様からの寄稿

東海道中膝栗毛


駿府生まれの十返舎一九。名前は知っていたが、静岡出身ということを知ったのは岡部に住み始めてからだった。《おかべ》は宮中用語でおとふという意味だということも。何故なら宮中の壁は白いからだと。膝栗毛の中の「豆腐なる岡部の宿に・・」の豆腐はそういう意味である。でも町の有志でおとふで町おこしと動き始めたのに・・叶わなかった。失敗?。良いアイデアでも具体的に形にするのは難しいんだと思った。
十返舎一九は明和2年(1765)駿府の武士の子として生まれた。幼名を市九。若い頃江戸に出て武家奉公をしたり、大阪で奉行に仕えたりしたが、後に版元蔦谷重三郎に寄宿。独学で洒落本、人情本も出していた。十返舎一九は終生故郷の駿河にこだわり、架空の弥次・喜多の出身も駿河だったのだ。天保2年(1831)に67歳で亡くなっている。
職業作家の先駆け。享和2年(1802)に初版品川~箱根間が出版され、毎年1編ずつ書き上げ、7年後に京都・大阪見物編を。最終編までには初編から20年に及ぶロングセラーになっていた。取材のための旅とお酒好きらしく、職業作家とはいえ貧乏だったらしい。江戸時代を知るにはとても良い資料なのかとも思うが・・私はまだ読破していない。
弥次・喜多は一九の手を離れて全国の共有のアイドルとして扱われ、面白い旅といえば・・弥次・喜多のみが有名になった。実は・・・弥次・喜多は貧相で下品。くだらないいたずらを繰り返し、失敗ばかりする。内容の多くが飯盛り女という旅人相手の女郎買いや夜這いの話。人の小便を間違えて飲んだり、遺骨をかじったりなど汚い話。だから成人向きの本。が当時は庶民の共感を得た時代の本だったと解説にある。理由はこの時代には寺子屋で庶民も文字が読めるようになったこと、しかも自分より下の人として読んでいるうちに、自分の思ってもやれない愚考を代わりにやってくれる弥次と喜多に笑いを見つけたということだと。
ところで亡くなった遺体を火葬にすると、あらかじめ中に仕込んだ花火がドーンとあがって人々をたまげさせたと書かれていた。本当かどうかわからない・・・が、潔い死に方だ。
この世をばどりゃおいとまにせん香の煙とともに灰さようなら

  


2019年07月04日 Posted by 県美友の会 at 14:58トピックス