会員様から情報です
プロムナ-ドNo.95号アトリエ訪問
絵本作家 宮西達也氏の「ミラクルワ-ルドシアタ-」のご案内
ステ-ジが飛び出す絵本になる!勇気、思いやり・・元気と感動の読み聴かせ劇場!!
宮西達也氏が描くゆかいな絵本のキャラクターたちがステージセットになって登場。
☆俳優・声優によるワクワク読み聴かせ劇
☆親子で舞台参加のドキドキサプライズ
☆光と生演奏によるウキウキ演出。
2018.8.24(金)三島市民文化会館大ホ-ルにて下記の通り開催されます。
1回目 開場10:00 開演11:00
2回目 開場13:00 開演14:00 (公演時間はいずれも約70分)
チケット代 前売券(税込)2,500円
当日券(税込)2,800円
(お問い合せ:三島市民文化会館 0559-976-4455)


絵本作家 宮西達也氏の「ミラクルワ-ルドシアタ-」のご案内
ステ-ジが飛び出す絵本になる!勇気、思いやり・・元気と感動の読み聴かせ劇場!!
宮西達也氏が描くゆかいな絵本のキャラクターたちがステージセットになって登場。
☆俳優・声優によるワクワク読み聴かせ劇
☆親子で舞台参加のドキドキサプライズ
☆光と生演奏によるウキウキ演出。
2018.8.24(金)三島市民文化会館大ホ-ルにて下記の通り開催されます。
1回目 開場10:00 開演11:00
2回目 開場13:00 開演14:00 (公演時間はいずれも約70分)
チケット代 前売券(税込)2,500円
当日券(税込)2,800円
(お問い合せ:三島市民文化会館 0559-976-4455)


会員様から
島と徳島
(国民文化祭で受賞)
知らせが届いた。国民文化祭工芸の部での授賞式に参加してくださいという手紙。文化庁からのものである。式典会場は徳島・大塚国際美術館。前泊のホテルも指定されていた。国民文化祭とは1年ごとに担当県がまわりもちで開催される文化祭で、国体の文化版である。私の場合は藍の古布を裂いて織る「裂織」の技法で作品にしたもので工芸のジャンルに属す。そして何と言うことでしょう。大きな賞をいたたけるなんて。徳島県文化協会会長賞。2007年のことだった。
今は日本で1番人気らしい大塚国際美術館。私が行ったのは美術館が出来て10年目。
早速インターネットで行き方を検索した。そのときのルートに直島が在ることがわかって帰りを飛行機にして、行きは直島に寄ってベネッセの美術館を観て1泊してから授賞式に参加することにした。
天気は良かった。新幹線・ローカルを乗り継いで宇野港のフェリー乗り場に着いた。乗り込んで船尾に座った。船が残すスクリューの波が右に左に船跡を残して進む。波の色も動きも潮の香りもこれから観る美術の作品達のことを思うとワクワク度が増した。
直島の「地中美術館」は2004年に設立されているので、私は3年後に行けた事になる。船着場からかなりウロウロして、やっとたどり着いた。ジェームス・タレルの作は、今まで観たこともない光そのものをアートとして提示していて1番心に残った。どうやって創っているのだろう。と思った。柔らかい光の色彩が好きになった。
歩き疲れて「地中海カフェ」で瀬戸内の美しい風景を一望できる屋外スペースでコーヒーを飲んでいると、セスナが近づいてきて、眼下の水面に降りた。店員さんに聞くと「社長です」と言うので、セスナで出勤する社長をかっこいい思った。
翌日徳島県にたどり着いた。阿波踊りで有名である。ここで踊っているのかとちょっとびっくりするほど狭かった。
入賞した作品が展示されている会館にたどり着くと、関係者の人と審査員が作品について感想を一般客に説明していた。私の顔をみてから、私の作品を観て「この重厚な作品をつくったのはあなたでしたか・・」と言葉を掛けられた。重厚という言葉に・・え!私の作品はそんな風に見えるのね。と自分は意識したことが無かったので、心の奥でもしかしたら私男っぽいのかもと思った。織物なのだが独学である。先生はいない。好きに織っている。誰の影響も受けていないし、たぶんどんな本にも似た作品は無いという自負はあったが。そしてその言葉にいきなり自信が沸いた。駅のそばのホテルに泊まり、次の日迎えのバスで審査員の先生達と一緒に授賞式会場に向かった。広い美術館ですべて陶板でしかも世界の名画を原寸大で焼き付けているものだった。大きすぎて1000点もの作品を全部観ることができなかった。
あれから織りは続けている。ただ同じ姿勢で織ることでからだも壊した。織ることが好きなのでジレンマである。

(国民文化祭で受賞)
知らせが届いた。国民文化祭工芸の部での授賞式に参加してくださいという手紙。文化庁からのものである。式典会場は徳島・大塚国際美術館。前泊のホテルも指定されていた。国民文化祭とは1年ごとに担当県がまわりもちで開催される文化祭で、国体の文化版である。私の場合は藍の古布を裂いて織る「裂織」の技法で作品にしたもので工芸のジャンルに属す。そして何と言うことでしょう。大きな賞をいたたけるなんて。徳島県文化協会会長賞。2007年のことだった。
今は日本で1番人気らしい大塚国際美術館。私が行ったのは美術館が出来て10年目。
早速インターネットで行き方を検索した。そのときのルートに直島が在ることがわかって帰りを飛行機にして、行きは直島に寄ってベネッセの美術館を観て1泊してから授賞式に参加することにした。
天気は良かった。新幹線・ローカルを乗り継いで宇野港のフェリー乗り場に着いた。乗り込んで船尾に座った。船が残すスクリューの波が右に左に船跡を残して進む。波の色も動きも潮の香りもこれから観る美術の作品達のことを思うとワクワク度が増した。
直島の「地中美術館」は2004年に設立されているので、私は3年後に行けた事になる。船着場からかなりウロウロして、やっとたどり着いた。ジェームス・タレルの作は、今まで観たこともない光そのものをアートとして提示していて1番心に残った。どうやって創っているのだろう。と思った。柔らかい光の色彩が好きになった。
歩き疲れて「地中海カフェ」で瀬戸内の美しい風景を一望できる屋外スペースでコーヒーを飲んでいると、セスナが近づいてきて、眼下の水面に降りた。店員さんに聞くと「社長です」と言うので、セスナで出勤する社長をかっこいい思った。
翌日徳島県にたどり着いた。阿波踊りで有名である。ここで踊っているのかとちょっとびっくりするほど狭かった。
入賞した作品が展示されている会館にたどり着くと、関係者の人と審査員が作品について感想を一般客に説明していた。私の顔をみてから、私の作品を観て「この重厚な作品をつくったのはあなたでしたか・・」と言葉を掛けられた。重厚という言葉に・・え!私の作品はそんな風に見えるのね。と自分は意識したことが無かったので、心の奥でもしかしたら私男っぽいのかもと思った。織物なのだが独学である。先生はいない。好きに織っている。誰の影響も受けていないし、たぶんどんな本にも似た作品は無いという自負はあったが。そしてその言葉にいきなり自信が沸いた。駅のそばのホテルに泊まり、次の日迎えのバスで審査員の先生達と一緒に授賞式会場に向かった。広い美術館ですべて陶板でしかも世界の名画を原寸大で焼き付けているものだった。大きすぎて1000点もの作品を全部観ることができなかった。
あれから織りは続けている。ただ同じ姿勢で織ることでからだも壊した。織ることが好きなのでジレンマである。
会員様から
今川義元公 来年 生誕500年 ・今川10代のお墓が身近にあった
「今川義元公生誕五百年祭推進委員会」が立ち上がり義元のPRに乗り出している新聞記事があった。今川氏については恥ずかしながらあまり知らなかった。調べてみると今川一族は主に10代続いていたこと、それぞれのお墓がバラバラということがわかった。そこで静岡と近郊のお寺で範氏・氏家・泰範・氏親・義元のお墓を訪ねてみた。
藤枝市岡部町の近くで花倉というロマンティクな名前の場所に徧照寺がある。古くはへんの字が違う「遍照光寺」と呼ばれていて、今川初期に1族の冥福と繁栄を祈願した氏寺だった。『駿河記』によると、初代範国がここに館を構え、範国・範氏・泰範の3代が住んでいて、境内には、2代範氏・とその子氏家(氏家は2代と数えられていない。父に先立って没した為)のお墓がある。また近くに長慶寺の泰範のお墓もある。
また徧照寺の後ろに広がる山で・・7代今川氏親の子の8代氏輝が早世し、同時に弟の彦五郎も死んだことで、出家していた9代義元と良真(玄広恵探)との間で跡目争いの「花蔵の乱」があった。
不思議に思うことだが、今川義元について何故静岡の人はあんまり話題にしないのか。非公認キャラの「今川さん」は力強い眼力があってインパクトのあるものであり、インスタ映えする。一方静岡の臨済寺にある義元木像は心の中にすーっと入ってこない。2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の義元のせいなのか・・。いずれにしても家康の影に追いやられている。静岡の町は家康がつくったと思われているが、今川氏が築いた文化でもあると思うのに。来年生誕500年の地域おこしにその功績を再評価しようという記事だった。
義元は寿桂尼がお母さん。生まれた時には跡継ぎの氏輝がいたので4歳で仏門へ入っている。当時は戦国時代。沢山の兄弟がいる場合、1人は仏門に入れる。それには理由があった。家族や兄弟が戦で亡くなった時、仏門の兄弟がいれば供養してもらえる。それだけ沢山の命が失われていたということだ。
駿府公園内に静岡県立美術館を建設しようとしたが、今川の遺跡が出てきて谷田に移ったことは有名だ。
今川公の盛り上がりがどんな形になるのか。私も応援できたらいいなと思った。


「今川義元公生誕五百年祭推進委員会」が立ち上がり義元のPRに乗り出している新聞記事があった。今川氏については恥ずかしながらあまり知らなかった。調べてみると今川一族は主に10代続いていたこと、それぞれのお墓がバラバラということがわかった。そこで静岡と近郊のお寺で範氏・氏家・泰範・氏親・義元のお墓を訪ねてみた。
藤枝市岡部町の近くで花倉というロマンティクな名前の場所に徧照寺がある。古くはへんの字が違う「遍照光寺」と呼ばれていて、今川初期に1族の冥福と繁栄を祈願した氏寺だった。『駿河記』によると、初代範国がここに館を構え、範国・範氏・泰範の3代が住んでいて、境内には、2代範氏・とその子氏家(氏家は2代と数えられていない。父に先立って没した為)のお墓がある。また近くに長慶寺の泰範のお墓もある。
また徧照寺の後ろに広がる山で・・7代今川氏親の子の8代氏輝が早世し、同時に弟の彦五郎も死んだことで、出家していた9代義元と良真(玄広恵探)との間で跡目争いの「花蔵の乱」があった。
不思議に思うことだが、今川義元について何故静岡の人はあんまり話題にしないのか。非公認キャラの「今川さん」は力強い眼力があってインパクトのあるものであり、インスタ映えする。一方静岡の臨済寺にある義元木像は心の中にすーっと入ってこない。2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の義元のせいなのか・・。いずれにしても家康の影に追いやられている。静岡の町は家康がつくったと思われているが、今川氏が築いた文化でもあると思うのに。来年生誕500年の地域おこしにその功績を再評価しようという記事だった。
義元は寿桂尼がお母さん。生まれた時には跡継ぎの氏輝がいたので4歳で仏門へ入っている。当時は戦国時代。沢山の兄弟がいる場合、1人は仏門に入れる。それには理由があった。家族や兄弟が戦で亡くなった時、仏門の兄弟がいれば供養してもらえる。それだけ沢山の命が失われていたということだ。
駿府公園内に静岡県立美術館を建設しようとしたが、今川の遺跡が出てきて谷田に移ったことは有名だ。
今川公の盛り上がりがどんな形になるのか。私も応援できたらいいなと思った。
平成30年度理事会・評議員会開催
平成30年度理事会・評議員会が開催されました!
去る5月26日(土)午後2時30分から静岡県立美術館講座室にて
「平成30年度理事会・評議員会」が開催されました。
平成29年度事業報告・決算 平成30年度事業計画・予算についてなど
理事、評議員の方々の承認を得て無事に閉会いたしました。
すでにプロムナードが発行されていたりと事業は進んでおります。
改めて会員の皆様へは資料を送付させていただきますのでお目通しお願いいたします。
そして多くの会員の皆様が事業へ参加関心をもっていただけるように事務局、委員一同
頑張ってまいります。
美術館の休館も残すところ1か月となりました。7月14日からは
「安野光雅のふしぎな絵本展」が開催されます。
ぜひご家族お友達とご一緒に美術館へご来館ください。
6月末まではロダン館のみ開館となっています。
今日は暑いですが、プロムナードを歩くと青空と緑がとても綺麗ですよ

去る5月26日(土)午後2時30分から静岡県立美術館講座室にて
「平成30年度理事会・評議員会」が開催されました。
平成29年度事業報告・決算 平成30年度事業計画・予算についてなど
理事、評議員の方々の承認を得て無事に閉会いたしました。
すでにプロムナードが発行されていたりと事業は進んでおります。
改めて会員の皆様へは資料を送付させていただきますのでお目通しお願いいたします。
そして多くの会員の皆様が事業へ参加関心をもっていただけるように事務局、委員一同
頑張ってまいります。
美術館の休館も残すところ1か月となりました。7月14日からは
「安野光雅のふしぎな絵本展」が開催されます。
ぜひご家族お友達とご一緒に美術館へご来館ください。
6月末まではロダン館のみ開館となっています。
今日は暑いですが、プロムナードを歩くと青空と緑がとても綺麗ですよ


静岡市美術館「ミュシャ展」招待券当選者
静岡市美術館「ミュシャ展」招待券当選者
たくさんのご応募ありがとうございました。
抽選の結果下記会員の方に決まりました。
おめでとうございます!
0007 0017 0159 0550 3043
3200 3214 3230 7092 9005
たくさんのご応募ありがとうございました。
抽選の結果下記会員の方に決まりました。
おめでとうございます!
0007 0017 0159 0550 3043
3200 3214 3230 7092 9005
会員様から
芹沢銈介は静岡の誇り
「芹沢銈介と四季」と銘打ち静岡市立芹沢介美術館で「春夏秋冬」の4文字を生かした展示会が開かれている。「春夏秋冬」は芹沢氏が愛した言葉。5.13日が芹沢氏の誕生日だと新聞で知った。生まれたのは1895年。静岡市本通で今の日本銀行静岡支店の近くで、間口が町内の半分あったという大店に生まれたのだった。
5.13母の日。何となく作品に会いたくて出かけてみた。
150点の今回の展示作品の中では「布文字春夏秋冬二曲屏風」(1965)が気に入った。(館蔵品は800点ある)デザインが何と言っても風流。落ち着いた色彩が今の私にはぴったりする。クイズラリーをやっていた。見たいように見る性格なので、ちょっとめんどくさいけど、久しぶりの美術館だったのでチャレンジもしながら作品をみた。「デザインのうちわ」も季節柄タイムリーで、素敵を連発してしまった。
1956年に人間国宝
1976年にフランスで大規模な個展をして大成功を収めている。芹沢氏がデザインした漢字「風」のフラッグがパリの空の下、展覧会案内のシンボルとして街にはためいている写真をみて感動した記憶がある。
1977年芹沢氏がふるさと静岡市に作品と収集品を寄贈すると申し出て、それがきっかけで登呂に美術館が建設された。
1981年開館記念展は86歳の芹沢氏本人がテープカットをしたとある。
芹沢氏の様々な展覧会の中で、静岡市美術館での生誕120年記念展「しあわせの色 楽しい模様」展が3年前にあった。その時、深澤直人氏(日本民藝館館長)の講演で聞いた言葉が印象に残っている。「世の中をできるだけ単純に見ようとしている。何でもモチーフにできることが才能である」と語ったのだ。今回会場はそんな作品達でいっぱいだった。
県外の人を案内するときは、地元では玉露の里と芹沢美術館になる。お茶席も心がほっこりするし芹沢のデザインは皆に愛されている。日本人のDNAの味覚や色彩の何かと結びつくからなのだろう。
新しくミュージアムショップがリニューアルされていた。経営に参加していたのは知り合いのご夫婦。奥さんか岡部出身である。うちわの話をすると「今は用意できないが、近いうちに仕入れたいと思っている」と言うので予約した。
芹沢氏の収集品も有名である。「美しい」と感じたものを集めたというが、作品づくりのヒントや自由さの後押しにもなったのだろう。作品達は「もうひとつの創造」と評価されている。
クイズラリーでは特製絵葉書をいただけた。ひらがなの”こい”とデザインされた空に向かって泳ぐような鯉のデザインで元気をもらえるものだった。
帰宅すると「母の日」のカーネーションの植木鉢が届いていた。ぎっしりと咲きほこり、つぼみを入れると1鉢で100本以上もあった。元気でいなくちゃというエネルギーをもらったプレゼントだった。

「芹沢銈介と四季」と銘打ち静岡市立芹沢介美術館で「春夏秋冬」の4文字を生かした展示会が開かれている。「春夏秋冬」は芹沢氏が愛した言葉。5.13日が芹沢氏の誕生日だと新聞で知った。生まれたのは1895年。静岡市本通で今の日本銀行静岡支店の近くで、間口が町内の半分あったという大店に生まれたのだった。
5.13母の日。何となく作品に会いたくて出かけてみた。
150点の今回の展示作品の中では「布文字春夏秋冬二曲屏風」(1965)が気に入った。(館蔵品は800点ある)デザインが何と言っても風流。落ち着いた色彩が今の私にはぴったりする。クイズラリーをやっていた。見たいように見る性格なので、ちょっとめんどくさいけど、久しぶりの美術館だったのでチャレンジもしながら作品をみた。「デザインのうちわ」も季節柄タイムリーで、素敵を連発してしまった。
1956年に人間国宝
1976年にフランスで大規模な個展をして大成功を収めている。芹沢氏がデザインした漢字「風」のフラッグがパリの空の下、展覧会案内のシンボルとして街にはためいている写真をみて感動した記憶がある。
1977年芹沢氏がふるさと静岡市に作品と収集品を寄贈すると申し出て、それがきっかけで登呂に美術館が建設された。
1981年開館記念展は86歳の芹沢氏本人がテープカットをしたとある。
芹沢氏の様々な展覧会の中で、静岡市美術館での生誕120年記念展「しあわせの色 楽しい模様」展が3年前にあった。その時、深澤直人氏(日本民藝館館長)の講演で聞いた言葉が印象に残っている。「世の中をできるだけ単純に見ようとしている。何でもモチーフにできることが才能である」と語ったのだ。今回会場はそんな作品達でいっぱいだった。
県外の人を案内するときは、地元では玉露の里と芹沢美術館になる。お茶席も心がほっこりするし芹沢のデザインは皆に愛されている。日本人のDNAの味覚や色彩の何かと結びつくからなのだろう。
新しくミュージアムショップがリニューアルされていた。経営に参加していたのは知り合いのご夫婦。奥さんか岡部出身である。うちわの話をすると「今は用意できないが、近いうちに仕入れたいと思っている」と言うので予約した。
芹沢氏の収集品も有名である。「美しい」と感じたものを集めたというが、作品づくりのヒントや自由さの後押しにもなったのだろう。作品達は「もうひとつの創造」と評価されている。
クイズラリーでは特製絵葉書をいただけた。ひらがなの”こい”とデザインされた空に向かって泳ぐような鯉のデザインで元気をもらえるものだった。
帰宅すると「母の日」のカーネーションの植木鉢が届いていた。ぎっしりと咲きほこり、つぼみを入れると1鉢で100本以上もあった。元気でいなくちゃというエネルギーをもらったプレゼントだった。

会員様から
私のファッションレボリューション
身につけている服の生産背景の見直しを消費者や企業に促すイベントが盛んだ。このイベントが生まれたのはバングラデシュの首都ダッカ近郊で縫製工場が入居するビルが崩壊して、1千人超が死亡したことから。2013年のことだった。メッセージは働く人の環境を考えてというものである。勿論きれいな色の服が安く手に入るのは嬉しいことだ。でもその服をつくる人達が劣悪な労働環境でいると知ることは大切だ。
若い頃は服にたくさんお金を使った。自分に合う色・形・繊維の種類等様々な組み合わせを学ぶには無駄な買い物を随分した。そして自分が好きな色や形がだんだん理解できるようになった。また時代と共に素材も進化して軽くてしわにならず丈夫な素材も生まれた。
自分で服をつくろうなんて考えてもいなかった。でも結果として服をつくることになったのは今から15年ほど前。裂織作家でデビューして着物の生地がたくさん集まった中に、裂いてしまうにはもったいないと思う素材があった。そこでそれを生かすデザインを考えた。昔の人は着物を洗い張りでしか洗わなかったので時代を経た独特な匂いがした。着物はクリーニングでと思っていた。が、あるとき着物を解いた後勇気を持ってかけ襟を手洗いしてみた。すると何と言うことでしょう。色は少し出たものの生地はしっかりしたまま綺麗になった。なーんだ洗えるじゃん。それからノースリーブワンピースをつくり始めた。柄あわせも楽しいが、素材が大島なので贅沢だ。そして前後はまったく同じ形にした。なので、あわてて着ても、前・後ろを間違えたことにはならない。しかも軽くて暖かい。ちょっとしたお出かけに着ていると、「もしかして大島ですか?」と声をかけられるようになった。私は「手洗いして大丈夫なものもあるので、ためして・・」と自分の体験を話した。着物を生かす人が増えてくれることを願った。最近では木綿の古い素材で夏に素肌に羽織っている。気持ちがいい。
知り合いの中には、フェアトレードで農薬不使用のオーガニックコットンで、正当な賃金と安全な労働環境を整える考えを応援している人もいる。私も勿論リユースも積極的にしている。似合う色や形がわかると、リユースもしやすい。若い頃沢山の失敗をしたおかげだ。
美術館で日本画の着物姿が描かれている作品を観ることがある。着物の柄の色の綺麗さも楽しむが、素材も判るようになったので楽しみが膨らむ。画家は素材も上手に表現している。素材を理解できて幸せだと思う。
最近では勇気を持って羽織をコートとして着ている。羽織の紐をまず取る。そして洋服の上に羽織る。その時「この羽織はコートです」と魔法の言葉を呟く。もちろん柄・色・丈の長さが私の琴線に触れた羽織のみだけど。母は私のファッションが恥ずかしいと言う。ジェネレーションギャップかもしれないが、着物文化の衰退は着方に囚われている人が多いからだと思う。だから私の立ち位置で訴えている。日本人が大切にしてきた着物文化を身近に取り入れる方法を伝えたい。それが私のファッションレボルーション。昔の女の人が機織機で苦労して織ったものを、簡単に捨てないように訴えていく。綿花を手つむぎして糸にする。糸を染めてから織るのだ。その大変な環境を想像して欲しい。

身につけている服の生産背景の見直しを消費者や企業に促すイベントが盛んだ。このイベントが生まれたのはバングラデシュの首都ダッカ近郊で縫製工場が入居するビルが崩壊して、1千人超が死亡したことから。2013年のことだった。メッセージは働く人の環境を考えてというものである。勿論きれいな色の服が安く手に入るのは嬉しいことだ。でもその服をつくる人達が劣悪な労働環境でいると知ることは大切だ。
若い頃は服にたくさんお金を使った。自分に合う色・形・繊維の種類等様々な組み合わせを学ぶには無駄な買い物を随分した。そして自分が好きな色や形がだんだん理解できるようになった。また時代と共に素材も進化して軽くてしわにならず丈夫な素材も生まれた。
自分で服をつくろうなんて考えてもいなかった。でも結果として服をつくることになったのは今から15年ほど前。裂織作家でデビューして着物の生地がたくさん集まった中に、裂いてしまうにはもったいないと思う素材があった。そこでそれを生かすデザインを考えた。昔の人は着物を洗い張りでしか洗わなかったので時代を経た独特な匂いがした。着物はクリーニングでと思っていた。が、あるとき着物を解いた後勇気を持ってかけ襟を手洗いしてみた。すると何と言うことでしょう。色は少し出たものの生地はしっかりしたまま綺麗になった。なーんだ洗えるじゃん。それからノースリーブワンピースをつくり始めた。柄あわせも楽しいが、素材が大島なので贅沢だ。そして前後はまったく同じ形にした。なので、あわてて着ても、前・後ろを間違えたことにはならない。しかも軽くて暖かい。ちょっとしたお出かけに着ていると、「もしかして大島ですか?」と声をかけられるようになった。私は「手洗いして大丈夫なものもあるので、ためして・・」と自分の体験を話した。着物を生かす人が増えてくれることを願った。最近では木綿の古い素材で夏に素肌に羽織っている。気持ちがいい。
知り合いの中には、フェアトレードで農薬不使用のオーガニックコットンで、正当な賃金と安全な労働環境を整える考えを応援している人もいる。私も勿論リユースも積極的にしている。似合う色や形がわかると、リユースもしやすい。若い頃沢山の失敗をしたおかげだ。
美術館で日本画の着物姿が描かれている作品を観ることがある。着物の柄の色の綺麗さも楽しむが、素材も判るようになったので楽しみが膨らむ。画家は素材も上手に表現している。素材を理解できて幸せだと思う。
最近では勇気を持って羽織をコートとして着ている。羽織の紐をまず取る。そして洋服の上に羽織る。その時「この羽織はコートです」と魔法の言葉を呟く。もちろん柄・色・丈の長さが私の琴線に触れた羽織のみだけど。母は私のファッションが恥ずかしいと言う。ジェネレーションギャップかもしれないが、着物文化の衰退は着方に囚われている人が多いからだと思う。だから私の立ち位置で訴えている。日本人が大切にしてきた着物文化を身近に取り入れる方法を伝えたい。それが私のファッションレボルーション。昔の女の人が機織機で苦労して織ったものを、簡単に捨てないように訴えていく。綿花を手つむぎして糸にする。糸を染めてから織るのだ。その大変な環境を想像して欲しい。
