会員様から情報です
寿桂尼のお墓を訪ねた
寿桂尼のお墓にめぐり合えた。まるで生きている人に会うように、会いたい思いが募って、たどり着いた気がした。そのお墓は私の想像より美しかった。菩提寺は龍雲寺。境内の一角ではなく、本堂裏手の奥の奥にあった。たどり着くまでが大変だった。左側は野菜畑、右側には木々の茂っている雑木林。その間の細い畦の道を進むのだが、50センチもない巾で雑草の生えた濡れた道だったのだ。水路に落ちたら大変なことになる。
寿桂尼・・漢字の持つイメージも響きも美しい。駿河の守護大名今川9代の氏親に15歳で嫁いでいる。時代は下克上。京都の公家中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘に育った彼女は、公家の持つ荘園を守ってもらう為の手段として今川へ。
「おんな城主直虎」の生き方にも影響を与えたという。また旦那だった氏親の亡くなる2ヶ月前に分国法「今川仮名目録」を制定しているので、寿桂尼の協力があっただろうと想像される。龍雲寺の入り口に黒印の「帰(とつ)ぐ」の意味の旧字体の漢字の説明があった。3センチ四方らしいが、その黒印を実際に使って公文書も出している。
ところで、亡くなって、本来なら氏親の菩提寺の増善寺に葬られたと思うのに・・。「死しても今川の守護たらん」として、今川館の鬼門に葬られることを希望。晩年はそのため龍雲寺で過ごしていたという。
駿府公園に静岡県立美術館を建設しようとしたとき、地中から今川の遺跡が出てきたので、結果として美術館は谷田になった経緯がある。
今川の遺跡はどんなものだったのだろうと考えることも楽しい。2019年は「東海一の弓取り」と称された、今川義元公生誕500年。ゆかりり地に住む私たちに改めて誇りを感じて欲しいと「静岡商工会議所が今川復権宣言」をするという。寿桂尼は天国で今の世を見ているのだろう。聞いてみたいことがたくさんある。
寿桂尼のお墓にめぐり合えた。まるで生きている人に会うように、会いたい思いが募って、たどり着いた気がした。そのお墓は私の想像より美しかった。菩提寺は龍雲寺。境内の一角ではなく、本堂裏手の奥の奥にあった。たどり着くまでが大変だった。左側は野菜畑、右側には木々の茂っている雑木林。その間の細い畦の道を進むのだが、50センチもない巾で雑草の生えた濡れた道だったのだ。水路に落ちたら大変なことになる。
寿桂尼・・漢字の持つイメージも響きも美しい。駿河の守護大名今川9代の氏親に15歳で嫁いでいる。時代は下克上。京都の公家中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘に育った彼女は、公家の持つ荘園を守ってもらう為の手段として今川へ。
「おんな城主直虎」の生き方にも影響を与えたという。また旦那だった氏親の亡くなる2ヶ月前に分国法「今川仮名目録」を制定しているので、寿桂尼の協力があっただろうと想像される。龍雲寺の入り口に黒印の「帰(とつ)ぐ」の意味の旧字体の漢字の説明があった。3センチ四方らしいが、その黒印を実際に使って公文書も出している。
ところで、亡くなって、本来なら氏親の菩提寺の増善寺に葬られたと思うのに・・。「死しても今川の守護たらん」として、今川館の鬼門に葬られることを希望。晩年はそのため龍雲寺で過ごしていたという。
駿府公園に静岡県立美術館を建設しようとしたとき、地中から今川の遺跡が出てきたので、結果として美術館は谷田になった経緯がある。
今川の遺跡はどんなものだったのだろうと考えることも楽しい。2019年は「東海一の弓取り」と称された、今川義元公生誕500年。ゆかりり地に住む私たちに改めて誇りを感じて欲しいと「静岡商工会議所が今川復権宣言」をするという。寿桂尼は天国で今の世を見ているのだろう。聞いてみたいことがたくさんある。