会員様から
お茶の香ロード2018

町おこしにもいろいろある。この「お茶の香ロード」を立ち上げたのは、東京の大学を卒業しそのままサラリーマンとして暮らした人の物語だ。毎年藤枝に帰省するたびに・・町や山の元気が失われている・・と思い自分で出来ることを・・と考えた人がいた。行政や政治とは関わらない立ち位置で地元の人達を巻き込む活動を続けてきた堀田一牛(いちぎゅう)氏だ。2004年に第一回「お茶の香ロード」が立ち上がった。それまでに至る5年間を横浜の家族と離れ単身赴任で一人住まいをしながらの活動開始だった。
初めて掘田氏に出会った時「茶町に帰ってきたら、昔の賑やかさが消えていて、何とかしたい」と熱く語る言葉に「裂織で良ければ協力できることはします」と交流が始まった。茶町の一言正廣(ひとことまさひろ)氏も賛同し、茶工場がギャラリーや寄席やライブホールにも変身した。
茶町は、江戸時代の宿場町だった商店街の上伝馬から500㍍離れているが、そこまでを中心にしてのエリアがロードになった。散策しながら楽しめるイベント。
私は西野商店の蔵で裂織り作品展示しながら、エリアをKURAガーデンと名づけた。お茶を楽しみながらの交流がはじまった。14年間参加して、毎年出会える人達と・・元気だった!!・・と1年ぶりの挨拶が出来るのも楽しい。毎回大判焼きを届けてくれるファンも有難い。
一昨年堀田氏が体を壊して、横浜に帰ってしまった。その後を地元の有志が引き継いているが賛同者の一言氏も亡くなってしまった。どうなるのかなと思ったが、地元の町おこしは何とか続けている。鬼願寺の広場のお茶席や蕎麦打ちも縮小し、場所を変えて続けている。
今年イベント中に堀田氏が横浜から来て寄ってくれた。「このイベントを立ち上げられて、本当に良かったと思っている」と話してた。一昨年よりは心身ともに元気になりつつ感じられた。家族と一緒で食事のバランスもとれ、良かったなーと思った。皆が堀田氏の情熱を良い意味で継承している。それぞれの立ち位置で、力まず続けているので私もやめないでいられる。
町おこしにもいろいろある。この「お茶の香ロード」を立ち上げたのは、東京の大学を卒業しそのままサラリーマンとして暮らした人の物語だ。毎年藤枝に帰省するたびに・・町や山の元気が失われている・・と思い自分で出来ることを・・と考えた人がいた。行政や政治とは関わらない立ち位置で地元の人達を巻き込む活動を続けてきた堀田一牛(いちぎゅう)氏だ。2004年に第一回「お茶の香ロード」が立ち上がった。それまでに至る5年間を横浜の家族と離れ単身赴任で一人住まいをしながらの活動開始だった。
初めて掘田氏に出会った時「茶町に帰ってきたら、昔の賑やかさが消えていて、何とかしたい」と熱く語る言葉に「裂織で良ければ協力できることはします」と交流が始まった。茶町の一言正廣(ひとことまさひろ)氏も賛同し、茶工場がギャラリーや寄席やライブホールにも変身した。
茶町は、江戸時代の宿場町だった商店街の上伝馬から500㍍離れているが、そこまでを中心にしてのエリアがロードになった。散策しながら楽しめるイベント。
私は西野商店の蔵で裂織り作品展示しながら、エリアをKURAガーデンと名づけた。お茶を楽しみながらの交流がはじまった。14年間参加して、毎年出会える人達と・・元気だった!!・・と1年ぶりの挨拶が出来るのも楽しい。毎回大判焼きを届けてくれるファンも有難い。
一昨年堀田氏が体を壊して、横浜に帰ってしまった。その後を地元の有志が引き継いているが賛同者の一言氏も亡くなってしまった。どうなるのかなと思ったが、地元の町おこしは何とか続けている。鬼願寺の広場のお茶席や蕎麦打ちも縮小し、場所を変えて続けている。
今年イベント中に堀田氏が横浜から来て寄ってくれた。「このイベントを立ち上げられて、本当に良かったと思っている」と話してた。一昨年よりは心身ともに元気になりつつ感じられた。家族と一緒で食事のバランスもとれ、良かったなーと思った。皆が堀田氏の情熱を良い意味で継承している。それぞれの立ち位置で、力まず続けているので私もやめないでいられる。