会員様からの寄稿
二川宿

二川宿は東海道53次の33番目の宿場町。私は21番目の宿場町である岡部宿の観光ボランティアをしている。年1回の研修で今回は豊橋市の二川宿本陣資料館に出かけた。館では予約していた豊川のボランティアの案内を受けた。勿論私達は案内の中から学ぶことを密かに探しながら聞いていた。二川宿は東海道の宿場には2ヶ所しか現存していない貴重な資料館だった。あと1つは草津宿(52番目の宿場。東海道と中山道の分岐・合流の要所。2軒の本陣があった。全国の中では最大)。江戸時代には東海道の宿場には111軒の本陣があった中で残っているのが2軒だったのだ。
豊川のボランティアは「今は外国人も増えているので、英語での案内もしています」と言うので、「私達に英語で説明して」とお願いした。半分も聞き取れなかった。実は私達岡部の観光ボランティアも英語で案内しなくちゃと思ったことがあった。さしあたり日本語の案内を英語に訳すことからだったが、残念なことに会としては挫折した。ボランティアの構成員が高齢だということもあるが、歴史の言葉でややこしいこともあったのだ。
資料館の中には
①旅の名物 とろろ汁や十団子の復元模型があった。
②旅日記 二川宿から江戸への旅日記があった。出費の一覧だったが、その中に文久2年(1862)には安倍川越賃 百六拾四文。安倍川餅 百文があった。
③本陣宿帳 (1807~1866)の60年間の利用者と利用状況の宿帳だった。感動した。参勤交代に伴うものだが琉球人・大村丹後守様御姫君(大村藩) 金百疋・筑州様(福岡藩) 銀5枚・酒井飛騨守奥様方(敦賀藩) なし・桑名様御女中 金百疋・織田近江守様(柏原藩) 金100疋・・御三家では尾張・紀伊の両藩。大名では毛利・島津・蜂須賀・黒田・朝野・山内。なかでも福岡藩の黒田家は57回の宿泊をしていた。
④関札があった。会の皆で「欲しいね」と話した。関札は本陣門前や宿場の入口に掲げる札。関札は大名の姓名が記されているので、丁寧に扱われた。一度使用した後は本陣で大切に保管していたのだ。
岡部の本陣は江戸時代に2軒。今は内野本陣が敷地のみ残って史跡広場になっているだけなので・・二川宿本陣が本当に羨ましかった。
二川宿は東海道53次の33番目の宿場町。私は21番目の宿場町である岡部宿の観光ボランティアをしている。年1回の研修で今回は豊橋市の二川宿本陣資料館に出かけた。館では予約していた豊川のボランティアの案内を受けた。勿論私達は案内の中から学ぶことを密かに探しながら聞いていた。二川宿は東海道の宿場には2ヶ所しか現存していない貴重な資料館だった。あと1つは草津宿(52番目の宿場。東海道と中山道の分岐・合流の要所。2軒の本陣があった。全国の中では最大)。江戸時代には東海道の宿場には111軒の本陣があった中で残っているのが2軒だったのだ。
豊川のボランティアは「今は外国人も増えているので、英語での案内もしています」と言うので、「私達に英語で説明して」とお願いした。半分も聞き取れなかった。実は私達岡部の観光ボランティアも英語で案内しなくちゃと思ったことがあった。さしあたり日本語の案内を英語に訳すことからだったが、残念なことに会としては挫折した。ボランティアの構成員が高齢だということもあるが、歴史の言葉でややこしいこともあったのだ。
資料館の中には
①旅の名物 とろろ汁や十団子の復元模型があった。
②旅日記 二川宿から江戸への旅日記があった。出費の一覧だったが、その中に文久2年(1862)には安倍川越賃 百六拾四文。安倍川餅 百文があった。
③本陣宿帳 (1807~1866)の60年間の利用者と利用状況の宿帳だった。感動した。参勤交代に伴うものだが琉球人・大村丹後守様御姫君(大村藩) 金百疋・筑州様(福岡藩) 銀5枚・酒井飛騨守奥様方(敦賀藩) なし・桑名様御女中 金百疋・織田近江守様(柏原藩) 金100疋・・御三家では尾張・紀伊の両藩。大名では毛利・島津・蜂須賀・黒田・朝野・山内。なかでも福岡藩の黒田家は57回の宿泊をしていた。
④関札があった。会の皆で「欲しいね」と話した。関札は本陣門前や宿場の入口に掲げる札。関札は大名の姓名が記されているので、丁寧に扱われた。一度使用した後は本陣で大切に保管していたのだ。
岡部の本陣は江戸時代に2軒。今は内野本陣が敷地のみ残って史跡広場になっているだけなので・・二川宿本陣が本当に羨ましかった。