会員様から

北斎 小布施
「何と言っても1999年ライフ誌が選定した「この1000年で最も重要な功績を残した人物100人」で、日本人で名を刻んだのは葛飾北斎ただ1人・・・」と熱く語る友人がいた。小布施に行って感動したらしい。   
北斎は1842年83歳で小布施に行った。江戸時代には勿論車もホテル無く、食べ物屋さんも少なかった道を歩いてだ。彼を動かした情熱は何なんだろうと、私もその小布施の北斎館に出かけてみた。小布施町は半径2㌔の中にむすべての集落が入る、長野で1番小さな町。千曲川と松川の合流する地点にあり、2つの川が合う「逢う瀬」が→「小布施」となったらしい。館はモダンに出来ていたが、肉筆画展で、北斎らしくて感動と言うよりは、作品が小さすぎて、また当時のお金持ちの以来の要請に応えたものであったので、期待して行った私は感動できなかった。
北斎は1760~1849年の間に何と3万点を超える作品を制作した天才だ。
北斎は有名で「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」「山下自雨」の作品だけは知っている。波頭が崩れるときの感動的な美しい波の表現で有名な「神奈川」沖浪裏」は以前テレビ番組で本物の波が崩れるところをハイスピードカメラで撮影したら、何と言うことでしよう!崩れるさまはぴったり同じだったと放送していたことを覚えている。ということは、北斎は動体視力の持ち主?だったということか?。と当時の私は思ったのだった。
娘阿栄(おえい)と北斎のNHKドラマを見たことがある。あまりの映像の美しさと宮崎葵演じる娘の掛け合いに引き込まれた。阿栄には興味を持ったが、映像からは北斎大好きと結びつかなかった。
北斎・・すみだ北斎美術館が2年前の秋にオープンしたときワクワクして出かけている。超モダンな建物だった。たくさん入り口で待って並んでいた。入るのにはちょっと狭い入り口。エレベーターで3階に行った。北斎は墨田区亀沢で生まれ、何回も引越しした人だった。90年の生涯をほとんど墨田区内で過ごしたことで、墨田区の地元の人達の寄付も含めて出来た公立美術館だったのだ。
天才だけど知っていると言えるほど程知ってはいないが新鮮な構図、卓抜のの描写、当時流行のべろ藍を使った美しい色彩は心に残った。
ドビッシーが1905年発表した「海」の曲がある。スコアの表紙に、北斎の「神奈川沖浪裏」を模倣して波だけをちょっと不器用に真似した作品が載っている。19世紀パリ万博の展示をきっかけにジャポニズムが流行し、詩的インスピレーションを受けて作曲したのだ。ドビッシーの肖像写真の後ろの壁に北斎の版画が映りこんでいて「音楽家でなかったら船乗りになっていただろう」と語っているので波は心の宝物だったと思う。ドビッシーの海の曲を聴きながら三曲目の「風と海との対話」のダイナミックな音を楽しんだ。

  


2018年08月07日 Posted by 県美友の会 at 09:54トピックス

会員様から

北斎 小布施
「何と言っても1999年ライフ誌が選定した「この1000年で最も重要な功績を残した人物100人」で、日本人で名を刻んだのは葛飾北斎ただ1人・・・」と熱く語る友人がいた。小布施に行って感動したらしい。   
北斎は1842年83歳で小布施に行った。江戸時代には勿論車もホテル無く、食べ物屋さんも少なかった道を歩いてだ。彼を動かした情熱は何なんだろうと、私もその小布施の北斎館に出かけてみた。小布施町は半径2㌔の中にむすべての集落が入る、長野で1番小さな町。千曲川と松川の合流する地点にあり、2つの川が合う「逢う瀬」が→「小布施」となったらしい。館はモダンに出来ていたが、肉筆画展で、北斎らしくて感動と言うよりは、作品が小さすぎて、また当時のお金持ちの以来の要請に応えたものであったので、期待して行った私は感動できなかった。
北斎は1760~1849年の間に何と3万点を超える作品を制作した天才だ。
北斎は有名で「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」「山下自雨」の作品だけは知っている。波頭が崩れるときの感動的な美しい波の表現で有名な「神奈川」沖浪裏」は以前テレビ番組で本物の波が崩れるところをハイスピードカメラで撮影したら、何と言うことでしよう!崩れるさまはぴったり同じだったと放送していたことを覚えている。ということは、北斎は動体視力の持ち主?だったということか?。と当時の私は思ったのだった。
娘阿栄(おえい)と北斎のNHKドラマを見たことがある。あまりの映像の美しさと宮崎葵演じる娘の掛け合いに引き込まれた。阿栄には興味を持ったが、映像からは北斎大好きと結びつかなかった。
北斎・・すみだ北斎美術館が2年前の秋にオープンしたときワクワクして出かけている。超モダンな建物だった。たくさん入り口で待って並んでいた。入るのにはちょっと狭い入り口。エレベーターで3階に行った。北斎は墨田区亀沢で生まれ、何回も引越しした人だった。90年の生涯をほとんど墨田区内で過ごしたことで、墨田区の地元の人達の寄付も含めて出来た公立美術館だったのだ。
天才だけど知っていると言えるほど程知ってはいないが新鮮な構図、卓抜のの描写、当時流行のべろ藍を使った美しい色彩は心に残った。
ドビッシーが1905年発表した「海」の曲がある。スコアの表紙に、北斎の「神奈川沖浪裏」を模倣して波だけをちょっと不器用に真似した作品が載っている。19世紀パリ万博の展示をきっかけにジャポニズムが流行し、詩的インスピレーションを受けて作曲したのだ。ドビッシーの肖像写真の後ろの壁に北斎の版画が映りこんでいて「音楽家でなかったら船乗りになっていただろう」と語っているので波は心の宝物だったと思う。ドビッシーの海の曲を聴きながら三曲目の「風と海との対話」のダイナミックな音を楽しんだ。

  


2018年07月12日 Posted by 県美友の会 at 10:14トピックス

会員様から

芸術は楽しい!!          静岡県文化プログラムスペシャルトーク2
清水華澄+しりあがり寿&宮城聡     
静岡芸術劇場(グランシップ内)
一部・いきなりオペラ歌手の清水華澄さんの歌声で始まった。 ビゼーの『カルメン』 アルマ・マーラーの『5つの歌曲』 ストラビンスキーの『エディプス王』 マスカーニ作曲『カブァレリア・ルスティカーナ』の中の一部。ミニ・リサイタルだった。
ちらしでは ~オペラ歌手と漫画家が語る舞台裏~となっていたので、リサイタルがあるという意識は無かった。オペラはそれぞれフランス語・ドイツ語・イタリア語・ラテン語で歌っていたらしい。私は音楽のリズムは好きだが、言葉がわからないのとオペラ通でも無かったので楽しく聴いていたわけではなかった。
16世紀にイタリアで生まれたオペラ。今は日本の歌い手も世界の劇場で活躍している。清水さんもその1人だと知った。
2部・続いて3人のトークがはじまった。SPACの監督宮城聡氏が「歌の意味は解からなかったので、訳を急いでプリントしてもらった」と話し始めた。
意味はわからなくても充分楽しめた。理由は歌う人の体の動きをしっかり見ていたから。それで理解できる。えー私にはそんな聴き方や見方をしたことなんて無かったのに・・。違うレベルで聞いていて楽しんでいたんだ。宮城さんが語った。「歌う人は自分の体が楽器」・・・私たちは誰でも体があるんだから、それぞれ個性的な楽器なんだから・・と理解していて、歌曲は言葉と身体とも言っていた。歌の言葉で体の動きが違う。それが理解できて楽しいらしい。そうなんだ!!
「何でオペラをつくっちゃうのか。人間だからつくっちゃう。人間を知るために。人間は何をするものなのか。時が過ぎると、芸術が残る。人間はすてた者じゃないと思えるために。」と宮城氏。オペラは、様々な芸術の要素・・音楽・演劇・美術・文学でお互いに魅力を発揮する総合的な芸術だ。宮城氏の率いる舞台芸術センターの立ち位置を理解することが少し出来た。
結局このトークでわかったのは、「2020年オリンピック・パラリンピック東京大会に向けた文化プログラム。スポーツだけの祭典ではなく、文化・芸術振興や文化・芸術による地域社会対応を目指していくという取り組みをしていく」とアピールしていたのだ

日本語でオペラの林光(はやしひかる)氏の舞台を東京に何度も観にいったことがある。気軽で、意味もわかるので楽しめたが、宮城氏の言う「言葉と体」の話を聞いてしまうと、歴史のある各国のオペラを理解するのは、その国の言語が大切だと頭では理解した。だったら日本語で素敵なオペラをいろんな人につくってほしいなー。そしたら体の動きと言葉で自然に楽しめるのに・・。


  


2018年07月10日 Posted by 県美友の会 at 15:03トピックス

会員様から

「無言館」戦没画学生慰霊美術館

新緑の木立に囲まれた少し勾配の道を歩くと、コンクリートの教会風の建物にたどり着いた。そこが無言館の入り口で、正面ではなく両サイドの木のドアを開けるとむき出しのままの絵の作品達が私に語りかけた。名前でまとめられた展示方法で、絵ばかりでなくケースの中には卒業証書や油絵の具の筆や家族への手紙もあった。
館主のメッセージが掛けてあった。タイトルは あなたを知らない だった。
遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ 私ははあなたを知らない
知っているのは あなたが遺したたった一枚の絵だ 力強いメッセージ。読んだ瞬間涙が溢れた。
作品達の中に24歳で戦死した曽宮俊一さんの絵があった。静岡県立美術館に館蔵品がある曽宮一念の息子さんだ。父の曽宮さんは101才まで生きることができたが、戦後50年以上息子さんのことを話さなかった。
1987年に94歳の一念さんの自宅を「アトリエ訪問」取材助手として訪ねたことがある。エッセイストクラブ賞を受けた「海辺の溶岩」をはじめ随筆、詩歌、画集などを出版し「へなぶり雁わたる」の歌集の準備をしていて話題になっていた。すでに失明していてエスコートの娘夕見(ゆみ)さんと一緒に現れゆっくり肘掛椅子に座った。近くの窓から見える潤川のせせらぎだけが強く記憶に残っている。助手同行でも緊張した。それから曽宮一念氏の作品が好きになった。館蔵品の「毛無連峯」の作品が好きだ。
館内ではたくさんの自画像に目がいった。個性溢れる表現で心に残ったのは竹内秀太郎さんの自画像。大正4年生まれだった。
館主の窪島誠一郎氏の講演に10年程前参加したことがある。藤枝の文学館仲間で企画したのだ。最後には大広間で座って一緒にご飯を食べた。彫りの深い顔にかかる髪の毛がふわふわと揺れて掻き揚げるしぐさが記憶の中に浮かぶ。声をストレートに揺るぎなく発する人だった。
在館していたらと思い、受付のお嬢さんに伺った。東京から少しの期間お手伝いに来ている窪島さんの娘さんだった。「今年3月に閉館したばかりのデッサン館で原稿執筆中」とのことで残念ながらお会いできなかった。出口にコーヒータイムの小さな空間があり「感想文ノート」に沢山のメッセージが書かれていた。窓外のやわらかい緑を見ながら私もノートに沢山書いた。最後に「せめて握手をしたかったです」と書いた。お嬢さんが「必ず伝えます。喜ぶと思いますよ」と言ってくださった。
第二展示館「傷ついた画布のドーム オリーブの図書館」に向かった。分厚い画集達が天井まで届く本棚の中で整然と並んでいる広い空間だった。図書館では1万5千冊程(蔵書は4万5千冊以上)を楽しめる空間でもあった。父である水上勉氏から譲り受けた本もあるということだった。
「無言館」の建設は満州に出征して罹病のため生還した画家・野見山暁治氏の戦死した仲間たちへの鎮魂の思いから出発した事業で、窪島さんは一緒に収集を手伝っていたことは有名である。「無言」の意味は沢山ある。無言でいることは、強い思いを内包している。窪島氏の無言の意志。無くなった人達の無言の遺志。そして生きてここにたどり着いた私の無言の意思・・。窪島氏は「無言館」の存在を守る天才だ。


  


2018年07月05日 Posted by 県美友の会 at 09:13トピックス

会員様から情報です

プロムナ-ドNo.95号アトリエ訪問
絵本作家 宮西達也氏の「ミラクルワ-ルドシアタ-」のご案内


ステ-ジが飛び出す絵本になる!勇気、思いやり・・元気と感動の読み聴かせ劇場!!
宮西達也氏が描くゆかいな絵本のキャラクターたちがステージセットになって登場。
☆俳優・声優によるワクワク読み聴かせ劇
☆親子で舞台参加のドキドキサプライズ
☆光と生演奏によるウキウキ演出。

2018.8.24(金)三島市民文化会館大ホ-ルにて下記の通り開催されます。
1回目 開場10:00 開演11:00
2回目 開場13:00 開演14:00 (公演時間はいずれも約70分)
チケット代 前売券(税込)2,500円
      当日券(税込)2,800円
(お問い合せ:三島市民文化会館 0559-976-4455)




  


会員様から

島と徳島 
(国民文化祭で受賞)


知らせが届いた。国民文化祭工芸の部での授賞式に参加してくださいという手紙。文化庁からのものである。式典会場は徳島・大塚国際美術館。前泊のホテルも指定されていた。国民文化祭とは1年ごとに担当県がまわりもちで開催される文化祭で、国体の文化版である。私の場合は藍の古布を裂いて織る「裂織」の技法で作品にしたもので工芸のジャンルに属す。そして何と言うことでしょう。大きな賞をいたたけるなんて。徳島県文化協会会長賞。2007年のことだった。
今は日本で1番人気らしい大塚国際美術館。私が行ったのは美術館が出来て10年目。
早速インターネットで行き方を検索した。そのときのルートに直島が在ることがわかって帰りを飛行機にして、行きは直島に寄ってベネッセの美術館を観て1泊してから授賞式に参加することにした。
天気は良かった。新幹線・ローカルを乗り継いで宇野港のフェリー乗り場に着いた。乗り込んで船尾に座った。船が残すスクリューの波が右に左に船跡を残して進む。波の色も動きも潮の香りもこれから観る美術の作品達のことを思うとワクワク度が増した。
直島の「地中美術館」は2004年に設立されているので、私は3年後に行けた事になる。船着場からかなりウロウロして、やっとたどり着いた。ジェームス・タレルの作は、今まで観たこともない光そのものをアートとして提示していて1番心に残った。どうやって創っているのだろう。と思った。柔らかい光の色彩が好きになった。
歩き疲れて「地中海カフェ」で瀬戸内の美しい風景を一望できる屋外スペースでコーヒーを飲んでいると、セスナが近づいてきて、眼下の水面に降りた。店員さんに聞くと「社長です」と言うので、セスナで出勤する社長をかっこいい思った。
翌日徳島県にたどり着いた。阿波踊りで有名である。ここで踊っているのかとちょっとびっくりするほど狭かった。
入賞した作品が展示されている会館にたどり着くと、関係者の人と審査員が作品について感想を一般客に説明していた。私の顔をみてから、私の作品を観て「この重厚な作品をつくったのはあなたでしたか・・」と言葉を掛けられた。重厚という言葉に・・え!私の作品はそんな風に見えるのね。と自分は意識したことが無かったので、心の奥でもしかしたら私男っぽいのかもと思った。織物なのだが独学である。先生はいない。好きに織っている。誰の影響も受けていないし、たぶんどんな本にも似た作品は無いという自負はあったが。そしてその言葉にいきなり自信が沸いた。駅のそばのホテルに泊まり、次の日迎えのバスで審査員の先生達と一緒に授賞式会場に向かった。広い美術館ですべて陶板でしかも世界の名画を原寸大で焼き付けているものだった。大きすぎて1000点もの作品を全部観ることができなかった。
あれから織りは続けている。ただ同じ姿勢で織ることでからだも壊した。織ることが好きなのでジレンマである。





  


2018年06月28日 Posted by 県美友の会 at 11:02トピックス

会員様から

今川義元公 来年 生誕500年 ・今川10代のお墓が身近にあった
「今川義元公生誕五百年祭推進委員会」が立ち上がり義元のPRに乗り出している新聞記事があった。今川氏については恥ずかしながらあまり知らなかった。調べてみると今川一族は主に10代続いていたこと、それぞれのお墓がバラバラということがわかった。そこで静岡と近郊のお寺で範氏・氏家・泰範・氏親・義元のお墓を訪ねてみた。
 藤枝市岡部町の近くで花倉というロマンティクな名前の場所に徧照寺がある。古くはへんの字が違う「遍照光寺」と呼ばれていて、今川初期に1族の冥福と繁栄を祈願した氏寺だった。『駿河記』によると、初代範国がここに館を構え、範国・範氏・泰範の3代が住んでいて、境内には、2代範氏・とその子氏家(氏家は2代と数えられていない。父に先立って没した為)のお墓がある。また近くに長慶寺の泰範のお墓もある。
 また徧照寺の後ろに広がる山で・・7代今川氏親の子の8代氏輝が早世し、同時に弟の彦五郎も死んだことで、出家していた9代義元と良真(玄広恵探)との間で跡目争いの「花蔵の乱」があった。
 不思議に思うことだが、今川義元について何故静岡の人はあんまり話題にしないのか。非公認キャラの「今川さん」は力強い眼力があってインパクトのあるものであり、インスタ映えする。一方静岡の臨済寺にある義元木像は心の中にすーっと入ってこない。2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の義元のせいなのか・・。いずれにしても家康の影に追いやられている。静岡の町は家康がつくったと思われているが、今川氏が築いた文化でもあると思うのに。来年生誕500年の地域おこしにその功績を再評価しようという記事だった。
義元は寿桂尼がお母さん。生まれた時には跡継ぎの氏輝がいたので4歳で仏門へ入っている。当時は戦国時代。沢山の兄弟がいる場合、1人は仏門に入れる。それには理由があった。家族や兄弟が戦で亡くなった時、仏門の兄弟がいれば供養してもらえる。それだけ沢山の命が失われていたということだ。
 駿府公園内に静岡県立美術館を建設しようとしたが、今川の遺跡が出てきて谷田に移ったことは有名だ。
今川公の盛り上がりがどんな形になるのか。私も応援できたらいいなと思った。






  


2018年06月14日 Posted by 県美友の会 at 10:30トピックス

平成30年度理事会・評議員会開催

平成30年度理事会・評議員会が開催されました!

去る5月26日(土)午後2時30分から静岡県立美術館講座室にて
「平成30年度理事会・評議員会」が開催されました。
平成29年度事業報告・決算 平成30年度事業計画・予算についてなど
理事、評議員の方々の承認を得て無事に閉会いたしました。
すでにプロムナードが発行されていたりと事業は進んでおります。
改めて会員の皆様へは資料を送付させていただきますのでお目通しお願いいたします。
そして多くの会員の皆様が事業へ参加関心をもっていただけるように事務局、委員一同
頑張ってまいります。
美術館の休館も残すところ1か月となりました。7月14日からは
「安野光雅のふしぎな絵本展」が開催されます。
ぜひご家族お友達とご一緒に美術館へご来館ください。
6月末まではロダン館のみ開館となっています。
今日は暑いですが、プロムナードを歩くと青空と緑がとても綺麗ですよicon01
  


2018年06月12日 Posted by 県美友の会 at 15:40トピックス

静岡市美術館「ミュシャ展」招待券当選者

静岡市美術館「ミュシャ展」招待券当選者

たくさんのご応募ありがとうございました。
抽選の結果下記会員の方に決まりました。
おめでとうございます!

0007 0017 0159 0550 3043
3200 3214 3230 7092 9005
  


2018年06月08日 Posted by 県美友の会 at 12:39トピックス

会員様から

芹沢銈介は静岡の誇り

「芹沢銈介と四季」と銘打ち静岡市立芹沢介美術館で「春夏秋冬」の4文字を生かした展示会が開かれている。「春夏秋冬」は芹沢氏が愛した言葉。5.13日が芹沢氏の誕生日だと新聞で知った。生まれたのは1895年。静岡市本通で今の日本銀行静岡支店の近くで、間口が町内の半分あったという大店に生まれたのだった。
5.13母の日。何となく作品に会いたくて出かけてみた。
150点の今回の展示作品の中では「布文字春夏秋冬二曲屏風」(1965)が気に入った。(館蔵品は800点ある)デザインが何と言っても風流。落ち着いた色彩が今の私にはぴったりする。クイズラリーをやっていた。見たいように見る性格なので、ちょっとめんどくさいけど、久しぶりの美術館だったのでチャレンジもしながら作品をみた。「デザインのうちわ」も季節柄タイムリーで、素敵を連発してしまった。
1956年に人間国宝
1976年にフランスで大規模な個展をして大成功を収めている。芹沢氏がデザインした漢字「風」のフラッグがパリの空の下、展覧会案内のシンボルとして街にはためいている写真をみて感動した記憶がある。
1977年芹沢氏がふるさと静岡市に作品と収集品を寄贈すると申し出て、それがきっかけで登呂に美術館が建設された。
1981年開館記念展は86歳の芹沢氏本人がテープカットをしたとある。
芹沢氏の様々な展覧会の中で、静岡市美術館での生誕120年記念展「しあわせの色 楽しい模様」展が3年前にあった。その時、深澤直人氏(日本民藝館館長)の講演で聞いた言葉が印象に残っている。「世の中をできるだけ単純に見ようとしている。何でもモチーフにできることが才能である」と語ったのだ。今回会場はそんな作品達でいっぱいだった。
県外の人を案内するときは、地元では玉露の里と芹沢美術館になる。お茶席も心がほっこりするし芹沢のデザインは皆に愛されている。日本人のDNAの味覚や色彩の何かと結びつくからなのだろう。
新しくミュージアムショップがリニューアルされていた。経営に参加していたのは知り合いのご夫婦。奥さんか岡部出身である。うちわの話をすると「今は用意できないが、近いうちに仕入れたいと思っている」と言うので予約した。
芹沢氏の収集品も有名である。「美しい」と感じたものを集めたというが、作品づくりのヒントや自由さの後押しにもなったのだろう。作品達は「もうひとつの創造」と評価されている。
クイズラリーでは特製絵葉書をいただけた。ひらがなの”こい”とデザインされた空に向かって泳ぐような鯉のデザインで元気をもらえるものだった。
帰宅すると「母の日」のカーネーションの植木鉢が届いていた。ぎっしりと咲きほこり、つぼみを入れると1鉢で100本以上もあった。元気でいなくちゃというエネルギーをもらったプレゼントだった。


  


2018年06月05日 Posted by 県美友の会 at 11:22トピックス